及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

実証研究の方法論が拠り所とする科学哲学の考え方の整理

藤井秀樹先生の「実証会計学の方法論 –科学哲学的背景の検討を中心に–」という論文において、今日の経営学やマーケティングにおいて使われている実証研究(empirical research)の方法論が拠り所とする科学哲学の考え方についてわかりやすく整理されていたので、該当する部分をサマリーする。

 

(実証主義)

  • 実証主義(positivism)の名称はそもそも、「(神によって)設定された」を意味するラテン語”positivus”に由来し、近世(特に17世紀)のヨーロッパにおいては、「自然法則は神の自由な設定による」ことを示すために用いられていた。その背景には、自然法則の根拠を「神の自由な設定」からさらに遡ることができないという考え方があった
  • 科学的思考法の整備が進む中で、実証主義は、事実として与えられる自然法則で満足し、その背後に生成の神秘などを求めない知識(科学的知識)のあり方を指すようになった

 

(論理実証主義)

  • 論理実証主義(logical positivism)においては、経験が知識の基礎とされ、一般法則は観察と論理によってのみ正当化されうる
  • 論理実証主義から、経験を通じて得られる知識(経験的知識)に基づいて世界のあり方や仕組みを説明することが科学の目的であると考える科学目的観が導き出された
  • 科学目的観に基づくと、経験を通じて検証できない命題を取り扱う形而上学は、科学ではないということになる
  • 科学の課題と哲学の課題を区別することにより、論理実証主義は、形而上学的諸問題(例: 「事物の本質は何か」)に煩わされることなく、経験的知識の探究に邁進することができるようになる
  • 論理実証主義に基づいて、ある仮説が設定され、サンプルデータの統計分析を通じてその仮説の検証が行われ、その検証の結果に基づいて、「仮説が支持された」といった結論が導かれる今日的な研究方法、いわゆる実証研究(empirical research)の方法論が整備された

 

そして、実証研究の拠り所となっているのは、帰納法、反証主義、確率・統計的思考法の三つの考え方である。

 

(帰納法)

  • 枚挙的帰納法(enumerative induction)においては、繰り返し観察される同種の経験的事実を根拠にしながら、より一般的な法則(究極的には普遍的な法則)を導こうとする推論方法である。具体的には、統計処理における最小二乗法やデータ処理法のカーブ・フィッティングは枚挙的帰納法が挙げられる
  • 仮説演繹法(hypothetico-deductive method)においては、「仮説が正しければ」(仮説)、「こういう条件下で」(初期条件)、「こういうことが生じるはずである」(観察予測)という演繹的推論が行われ、その推論と観察の結果が一致していれば「仮説が証明された」ということになる。観察予測と観察の結果の照合により一致しているという判断には帰納法が使われる
  • しかしながら、枚挙的帰納法も仮説演繹法も、普遍的な法則を導くには、関連事実の無限集合を観察対象にする必要があるが、現実世界で観察が可能なのは有限個の観察事実に過ぎない。有限個の関連事実の観察から普遍的な法則を帰納法によって推論する際には、「同じ条件のもとでは、同じ現象が繰り返される」という斉一性原理(principle of the uniformity)を前提とせざるを得ないが、斉一性原理を正当化するのには、関連事実の無限集合を観察対象にする必要がある、という循環論法に陥ってしまう。これが帰納法に対する懐疑主義的批判である

 

(反証主義)

  • 懐疑主義的批判に対して、ポパーは、帰納法を推論過程から排除した科学的方法論として反論主義(falsificationism)を提唱した。確かに観察予測と観察結果が一致しても仮説は検証されないが、観察予測と観察結果が一致しない場合、すなわち、仮説が正しければ絶対に起きないような事実が観察された場合には、「仮説が間違っている」ということを揺るぎない結論として導き出すことができる。これは、帰納法を使わないで推論することができる。ポパーによると、観察予測と観察結果が一致しないことにこそ方法論的な意味があるのであり、仮説が反証されたならば、どのように反証されたかを参考にして、研究者はより良い仮説を新たに考案することができるとされる
  • 今日的な実証研究においては、統計的検定の対象となる仮説として、それを棄却することによってその対立仮説が統計的に支持されることを示すために設定される仮説(帰無仮説)が提示されるが、この帰無仮説の考え方には、ポパーの反証主義が反映していると言われている
  • ポパーは、反証不可能な仮説(反証条件を特定できない仮説)は科学的仮説とは言えないとし、反証可能性の有無を、科学と疑似科学の境界設定問題(demarcation problem)を考える際の基準線とした
  • しかしながら、反証主義には、ある仮説が反証されたとしても、その反証が、主要仮説と補助仮説(主要仮説の前提や条件となる諸条件)のどちらかについてなされたのかがわからないといった、観察によって仮説が決定されない過小決定(under-determination)の問題が残った

 

(確率・統計的思考法)

  • 過小問題に対して、証拠の予測確率を100%とする制約条件を緩め、反証主義の基本的原則(「仮説が真ならば起こりえないようなことが起きたら、その仮説は放棄すべきである」という推論規則)を、確率的要素を含む規則(「仮説が真であれば非常に低い確率でしか起きないようなことが起きたら、その仮説は放棄すべきである」という推論規則)に置き換えることで、実証研究の方法論は、過小問題に対処できるようになる
  • 今日の経営学やマーケティングにおいて使われている実証研究の方法論は、確率的要素を含んだ推論規則をベースとしている。
  • 典型的な手順は、ランダムサンプリングされたAグループとBグループのそれぞれのグループにおいて、論点となる変数Xの出現する割合が、「Aグループの割合とBグループの割合には差がない」という帰無仮説(H0)を立て、カイ2乗検定でこの帰無仮説が棄却できるかどうかを判定するものである

    この判定は、確率論的に行われる。例えば、変数Xの割合に、Aグループにおいて70%(140/200)、Bグループにおいて55%(110/200)という差があった場合、カイ2乗値が9.6となり、カイ2乗値が6.63を超えると1%水準で有意になるので、「Aグループの割合とBグループの割合の差は、100回同じように調査をした場合に1回以下しか観察されない非常に稀なものである」ことを示している。したがって、99%以上の信頼性で帰無仮説を棄却することができる

    帰無仮説が棄却できれば、「Aグループの割合とBグループの割合には差がある」という本来確かめたかった仮説(対立仮説H1)が支持され、帰無仮説が棄却できなければ、帰無仮説は当面保持される
  • ただし、このアプローチにおいても、仮説検定において考慮されていない要因が帰無仮説の反証に無視しえない影響を与えているとすれば、検証結果は「見せかけの相関関係」を示すことになる。そこで、仮説と証拠を結ぶ様々な補助仮説が考慮され、必要に応じてモデルの改良が行われることが期待される

 

残念ながら、この「見せかけの相関関係」の問題を解決し、因果関係を証明できる実証研究の方法論が、もし「ランダム化比較試験」による検証が可能な仮説ならば「ランダム化比較試験」が最も信頼性が高いという今日的な結論まではこの論文には出てこない(会計学の研究だとおそらく「ランダム化比較試験」がしにくいテーマが多いのだろうが)が、それは別の機会にまとめることにしよう

 

資料

藤井秀樹 (2010) 「実証会計学の方法論 –科学哲学的背景の検討を中心に–」『京都大学大学院経済学研究科 Working Paper No. J-81』 http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~chousa/WP/j-81.pdf

柄谷行人による「反証可能性」についての説明

カール・ポパーの「反証可能性」について、その本質を明快に説明していた柄谷行人の説明がありましたので、該当する部分の一部を備忘のため引用します。

 

“ たとえば、デカルトはすでに仮説を立て、それを検証する実験を考案することを主張している。したがって、たんに仮説・推測の先行性(投げ入れ)を主張することがカントの独創なのではない。問題は、仮説の真理性が観察・実験によって検証できるかどうかにある。そこにヒュームの懐疑があらわれる。なぜたかだが有限回の実験が一般的な法則を保証するのか、と。

 カントが科学的認識を「現象」に限定するのはここにおいてである。ヒュームに対して、彼は次のように応答する。ヒュームは感覚を確実だと考える一方で、数学を分析的判断と見なしており、経験科学にはそのような確実性がないと言う。しかし、カントによれば、われわれが感覚と呼んでいるのはすでに感性や悟性によって構成されたものでしかなく、また数学は綜合的判断である。要するに、カントは経験論者も合理論者も固執している確実な真理というものを放棄したのである。科学は「現象」であり、それで十分だ。科学的認識は綜合的判断=拡張的判断であって、つねに開かれたものである。逆にいうと、確実な認識などは何の価値もない。これが「カント的転回」である。”

 

“ 帰納的推論へのヒュームの懐疑とそれに対するカントの応答の今日的意味を明らかにしたのは、カール・ポパーである。ポパーは彼自身が属していた論理実証主義を非難して、科学的認識を保証するのは「検証可能性」ではなく「反証可能性」であると主張した。ポパーの考えでは、一般に実験的テストにかけられる科学的仮説は、「もし仮説Pが真であるならば、観察可能な出来事Qが生じる」という条件命題のかたちをとるが、その場合Qが観察されたからといって仮説Pが真になるわけではない。しかし、Qが観察されなかった場合は、仮説Pは斥けられる。したがって、科学的命題の真理性は、実験による検証によって得られるのではない。それはたんにその命題が偽であることを示す例を見つける(falsify)ことができないときに成立するが、その真理性は暫定的である。なぜなら将来いつ反証が成功するかも知れないからである。“

 

“ 現象ということによって、カントは科学的知識が暫定的真理であり、したがって拡張的(綜合的)であることを主張していたのである。”

 

柄谷行人 (1995), 「探求III (第九回)」『群像』50(1) , 271-273.

「サピエンス全史」と「世界史の構造」を改めて読む

現在起こっている戦争を目にしながら、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」と柄谷行人の「世界史の構造」の「戦争」に関連する部分を改めて読み返し、気になった部分を備忘として引用します。

 

まず、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」の第18章「国家と市場経済がもたらした世界平和」から。

 

“ ごく少数の例外を除けば、世界の国々は1945年以降、征服・併合を目的として他国へ侵攻することはなくなった。こうした征服劇は、はるか昔から、政治史においては日常茶飯事だった。巨大帝国の多くは、征服によって建設されてきたのであり、大半の支配者も人民も、この状況が変わることはないと考えていた。だが今日では、ローマやモンゴル、オスマントルコのもののような征服を目的とした軍事遠征は、もはや世界のどこにおいても起こり得ない。1945年以降、国連の承認を受けた独立国家が征服されて地図上から消えたことは一度もない。国家間の限定戦争〔相手の殲滅を目指すことなく、その目的や、攻撃の範囲や目標、手段などに一定の制限を設けた戦争〕は、今なおときおり勃発するし、何百万人もの人が戦争で命を落としているが、戦争はもう、当たり前の出来事ではない。”

 

“ 学者たちはこの喜ばしい展開を説明しようと、うんざりして読む気も起こらないほど多くの本や論文を書き、この展開に寄与した要因のいくつかを突き止めた。まず何をおいても、戦争の代償が劇的に大きくなったことが挙げられる。今後あらゆる平和賞を無用にするために、ノーベル平和賞は、原子爆弾を設計したロバート・オッペンハイマーとその同僚たちに贈られるべきだった。核兵器により、超大国間の戦争は集団自殺に等しいものになり、武力による世界征服をもくろむことは不可能になった。”

 

“ 第二に、戦争の代償が急騰する一方で、戦争で得られる利益は減少した。歴史の大半を通じて、敵の領土を略奪したり併合したりすることで、政体は富を手に入れられた。そうした富の大部分は、畑や家畜、奴隷、金などが占めていたので、略奪や接収は容易だった。今日では、富は主に、人的資源や技術的ノウハウ、あるいは銀行のような複合的な社会経済組織から成る。その結果、そうした富を奪い去ったり、自国の領土に併合するのは困難になっている。”

 

“ 戦争は採算が合わなくなる一方で、平和からはこれまでにないほどの利益が挙がるようになった。伝統的な農耕経済においては、遠隔地との取引や外国への投資はごくわずかだった。そのため、戦費の支出を免れることを除けば、平和にたいした得はなかった。16世紀にもし日本と朝鮮が有効的な関係にあったなら、朝鮮の人々は戦争のために重い税を支払うことも、日本の侵略による惨禍に苦しむこともせずに済んだだろうが、それを除けば、彼らに経済的な利益はなかった。現代の資本主義経済では、対外貿易や対外投資はきわめて重要になった。したがって、平和は特別な配当をもたらす。日本と韓国が友好的な関係にあるかぎり、韓国の人々は製品を日本に売り、日本の株式を売買し、日本からの投資を受けることで、繁栄を謳歌できる。”

 

“ 最後になったが、他に劣らず重要な要因として、グローバルな政治文化に構造的転換が起こったことが挙げられる。歴史上、フン族の首長やヴァイキングの王侯、アステカ帝国の神官をはじめとする多くのエリート層は、戦争を善なるものと肯定的に捉えていた。一方で、うまく利用すべき必要悪と考える指導者もいた。現代は史上初めて、平和を愛するエリート層が世界を治める時代だ。政治家も、実業家も、知識人も、芸術家も、戦争は悪であり、回避できると心底信じている。”

 

“ 以上の四つの要因の間には、正のフィードバック・ループが形成されている。核兵器による大量虐殺の脅威は、平和主義を促進する。平和主義が広まると、戦争は影を潜め、交易が盛んになる。そして交易によって、平和の利益と戦争の代償はともに増大する。時の経過とともに、このフィードバック・ループは、戦争の歯止めをさらに生み出す。最終的にその歯止めは、あらゆる要因の中で最大の重要性を持つことになるかもしれない。国際関係が緊密になると、多くの国の独立性が弱まり、どこかの国が単独で戦争を仕掛ける公算が低下するのだ。大半の国々が全面戦争を起こさないのはひとえに、もはや単独では国としては成り立ち得ないという単純な理由による。”

 

 ハラリがここで見出す戦争の代償、戦争で得られる利益、平和の利益、平和を愛する政治文化の四つの要因による正のフィードバック・ループは、今日において戦争を行わないことの合理性を確かに強化しているように感じます。

 この考え方に基づくと、もし現在起こっている戦争が「利益-代償」の合理性の判断に基づいて展開されているならば、この四つの要因に対する認知を変えるきっかけを提供することにより、解決する希望がありそうです。

 

次に、柄谷行人の「世界史の構造」の第四部「現在と未来」の第二章「世界共和国へ」から。

 

“ ここでわれわれが考えるべきなのは、世界国家(帝国)のように至上の主権者をもつことなく、諸国家が連邦したままで「国際法」あるいは「万民の法」に従うということがいかにして可能になるのか、という問題である。ホッブス的な考えでは、それはあり得ない。国内でそうであったように、戦争を通して権力を独占した主権者の下に、各国が「社会契約」を交わすときに、平和状態が可能となる。そうでなければ、諸国家の連邦では、国際法に対する違反を咎めるすべがない。たとえば、ヘーゲルはそのように考えた。”

“ しかし、カントは、ヘーゲルがいうように、「理想論」をナイーブな観点から唱えたのではない。カントはヘーゲルとは違った意味で、ホッブスと同様の見方をしていた。つまり、人間の本性(自然)には、「反社会的社会性」があり、それをとりのぞくことはできないと考えていた。この点で、カントをホッブスと対照的に見るのは、あまりにも浅薄な通念である。カントが永遠平和のための国家連合を構想したとき、暴力にもとづく国家の本性を容易に解消することはできないという認識に立っていた。だが、彼は世界共和国という統整的理念を放棄するのではなく、徐々にそこに近づけばよいと考えたのである。諸国家連邦はそのための第一歩である。 

 しかも、カントは諸国家連邦を構想しつつ、それが人間の理性や道徳性によって実現されるとは全く考えなかった。それをもたらすのは、人間の「反社会的社会性」、いいかえれば、戦争だと、カントは考えたのである。”

 

“ 19世紀末に、帝国主義とともに、カントの諸国家連邦論が復活してきた。そして、それがある程度実現されたのが、第一次世界大戦後の国際連盟である。それをもたらしたのは、カント的な理想というよりも、第一次世界大戦において、彼がいう人間の「反社会的社会性」が未曾有の規模で発現されたことによってである。

 国際連盟は、それを提案したアメリカ自身が批准しなかったため無力で、第二次世界大戦を防ぐことができなかった。しかし、第二次世界大戦の結果として、国際連合が形成された。つまり、カントの構想は、二度の世界大戦を通して、つまり、「自然の狡知」によって達成されたのである。”

 

“ 第二次世界大戦後に結成された国際連合は、国際連盟の挫折の反省に立っているが、やはり無力である。国連は、それを通して有力な諸国家が、自己の目的を実現する手段でしかない、という批判があり、また、国連は独自の軍事組織がないため、軍事力をもった有力な国家に依拠するしかない、という実情がある。そして、国連への批判はいつもカントに対するヘーゲルの批判に帰着する。すなわち、国連によって国際紛争を解決しようという考えは「カント的理想主義」にすぎないと言われるのである。もちろん、国際連合は無力である。だからといって、それを嘲笑して無視しつづけるならば、どういうことになるか。世界戦争である。しかし、それは新たな国際連合を形成するということに帰結するだろう。したがって、カントの見方には、ヘーゲルのリアリズムよりも、もっと残酷なリアリズムがひそんでいる。”

 

“ 諸国家連邦では、諸国家の対立や戦争を抑止することができない。実力を行使しうる国家を認めないからだ。だが、カントによれば、その結果として生じた戦争が、諸国家連邦を強固にする。諸国家の戦争を抑えるのは、他に抜きんでたヘゲモニー国家ではない。諸国家間の戦争を通して形成された諸国家連邦なのである。”

 

 柄谷がカントに見出している「諸国家連邦」という希望は、「反社会的社会性」=戦争自体を避けることはできないが、それを通じて徐々に強固になるものとされています。
 この考え方に基づくと、もし今回の戦争が、合理性の判断ではなく人間の本性に基づいて展開されているならば、残念ながらそう簡単には解決しないかもしれません。

「トロッコ問題」と「二重過程理論」ー「モラル・トライブズ」読書メモ2

20世紀の中頃の哲学(倫理学)に登場した「トロッコ問題」という問題がある。マイケル・サンデルの「白熱教室」でこの問題をめぐる議論を観た方もいらっしゃるだろう。

制御不能になったトロッコが、五人の鉄道作業員めがけて突き進んでいる。トロッコがいまのまま進めば、五人は轢き殺されるだろう。
あなたはいま線路にかかる歩道橋の上にいる。歩道橋は向かってくるトロッコと五人の作業員のいるところの中間にある。
あなたの隣には大きなリュックを背負った鉄道作業員がいる。五人を救うには、この男を歩道橋から線路めがけて突き落とすしかない。その結果男は死ぬだろう。
しかし男の身体とリュックサックで、トロッコが他の五人のところまで行くのを食い止められる。
ただし、あなた自身はリュックサックを背負っていないし、トロッコを止められるほど体も大きくないし、この男からリュックサックを受け取って背負う時間もない。
この見知らぬ男を突き落として死なせ、五人を救うことは、道徳的に容認できるだろうか?

この判断に対しては、やはり、ほとんどの人が「間違っている」と答えるそうである。

ところで、この問題にはもう一つのバージョンがある。トロッコを止める方法が、隣にいるリュックサックを背負った鉄道作業員を突き落とすのではなく、分岐器のスイッチを押して、トロッコの進む先を、五人の鉄道作業員がいる今の線路ではなく、一人の鉄道作業員がいる待避線に切り替えるというものである。スイッチを押すことによって、待避線にいる一人の作業員は轢き殺されてしまうが、五人の作業員は救うことができる。

このバージョンになると、この判断に対して正しいとする意見が出てくる。そう、同じ人が、前者は間違った判断だと考え、後者は正しい判断だと考えるのだ。しかし、この二つのバージョンは、本質的には同じ問題である。それに対して、私たちは、あるときは正しいと考え、あるときには間違っていると考える。なぜこの矛盾が生じるのか?

この矛盾は、これまでの哲学の「トロッコ問題」に対する模範解答ーベンサム的な功利主義(最大多数の最大幸福)と、カント的な義務論(人間を手段ではなく目的として扱うべし)の間での議論ーでは解決することができない。

ジョシュア・グリーンは、そこに意外なアプローチを持ち込む。それはfMRI(functional magnetic resonance imaging, 磁気共鳴機能画像法)による脳のスキャン。

このトロッコ問題の二つのバージョンをベースとしたストーリーを被験者に読んでもらい、判断してもらうときに脳をスキャンすることにより、「非人身的」なストーリー(≒分岐器のスイッチを押す)を読んだ際には主としてDLPFC(前頭前野背外側部)が活動するが、「人身的」なストーリー(≒隣にいる鉄道作業員を突き落とす)を読んだ際には、DLPFCとともにVMPFC(前頭前野腹内側部)が活動することを実証した。

神経科学のこれまでの研究から、DLPFCは人間の認知制御を処理し、VMPFCは人間の情動的な反応を処理することから、この実験は、人間が、同じ問題に対して二つの異なるプロセスで思考を展開することを示している。

グリーンは、この二つのプロセスを、行動経済学の二重過程理論をベースに、「オートモード」と「マニュアルモード」と名づける。

「オートモード」のときは、情動的なものに基づいて効率的に判断が展開される。そして、「オートモード」を使って解けない問題に対しては、「マニュアルモード」を使うことで、理性的なものに基づいて柔軟に問題解決が展開される。

そして、同じ部族の中の《私》対《私たち》の問題のときは、「オートモード」が有効だとされる。
共感、愛情、友情、感謝、名誉心、羞恥心、罪悪感、忠誠、畏怖、当惑といった情動によって自分の利益よりも他者の利益を優先したり、怒りや嫌悪の情動によって《私たち》より《私》を大事にしすぎる人を避けたり、罰しようとしたりすることによって、部族内での嘘や欺き、盗み、殺人は大幅に減り、《私たち》は繁栄できることになる。

ところが、前回紹介した「常識的道徳の悲劇」のように、異なる部族の間の《私たち》対《彼ら》の問題のときは、『私たちの利益』対『彼らの利益』や『私たちの価値観』対『彼らの価値観』が関わることになるが、このような場面では、「オートモード」には《彼ら》よりも《私たち》を優先する傾向があり、「オートモード」が機能する前提となる協力条件や、指導者、文書、制度、慣習における『固有名詞』も部族間で異なるため、「オートモード」は必ずしも有効ではなく、むしろ問題を解決から遠ざけることとなる。

グリーンは、《私たち》対《彼ら》の問題のときには、「マニュアルモード」に切り替えるのが解決の鍵だと考える。そして、「マニュアルモード」に切り替えるべきタイミングを「議論が存在するとき」と提案する。
部族間の意見が対立するとき、それはほぼ例外なく、オートモードが違う意見を言っていて、「情動の道徳羅針盤が反対の方角を指している」ことが原因である。とするならば、あらゆるやり方で《私たち》が正しくて《彼ら》が間違っているように考える傾向を持つ「オートモード」は、問題を悪化させるばかりである。

しかしながら、一旦議論が始まり意見が対立してしまうと、そこから「マニュアルモード」に切り替えることは、実際ににはなかなか難しいものでもある。
そこで、具体的な解決策として、グリーンは、「説明の深さの錯覚」の利用を提唱する。すなわち、人間が持っている、そのテーマに関する仕組みを知らなくてもそのテーマを理解しているように感じる錯覚を突くアプローチー例えば、自らが議論で強硬な姿勢で主張しているテーマについて、例えばその仕組みを説明してみることを求める質問をすることによって、「マニュアルモード」に切り替えるのを促すといったものーである。実際にこの質問を実験したところ、被験者の強硬な姿勢が緩和されたとのことである。

これまで私たちの社会で有効なアプローチとされてきた議論に基づく問題解決は、この「オートモード」と「マニュアルモード」の切り替えができない限りは、実は私たちが思っているほど(あるいは薄々気づいていた通り)有効ではないのかもしれない。
議論が始まってしまう前に、情動を封じて「マニュアルモード」に切り替えるアプローチを、私たちはもっと磨き込まなければならないのかもしれない。

「常識的道徳の悲劇」ー「モラル・トライブズ」読書メモ 1

ジョシュア・グリーンの「モラル・トライブズ」は、次のような寓話から始まる。

森の東の部族は、共同の牧草地において、どの家も同じ数の羊を飼育している。
森の西の部族は、共同の牧草地において、家族の人数に応じて所有できる羊の数が決まる。
森の北の部族は、共同の牧草地はなく、どの家も自分の土地を所有していて、家々の土地の広さや生産性にばらつきがある。
森の南の部族は、共同の牧草地において、羊も共同で所有している。

いずれも部族においても、それぞれ異なる課題はあるものの、それぞれの部族の人々は「うまくいっている」と感じている。

あるとき、山火事で森が燃えたことがきっかけで、新たな牧草地が出現した。
近隣の部族たちはその土地をどう扱ったら良いかをめぐって争いが始まった。
森の南の部族は、新たな牧草地は全ての人々のものであり、共同で開発しなければならないと主張し、そのための新たな議会の結成を提案し、他の部族にも代表を送るよう提案した。
森の北の部族は、この提案をあざ笑い、森の南の部族が議会の結成を準備している間に、家を建て、石壁を築き、草地に羊を放った。
森の東と森の西の部族は、中には議会に代表を送った家もあったが、森の北の部族よりも控えめながらも、同じように自分たちの羊を飼い始めた。

あるとき、森の南の部族の羊が一頭、森の北の部族の牧草地に紛れ込んだ。森の北の部族はその羊を森の南の部族に返した。
それに続いて、森の南の部族の羊が一頭、再び森の北の牧草地に紛れ込んだ。森の北の部族は、今度は羊を返す手間賃を要求した。森の南の部族は支払いを拒否した。
それに対して、森の北の部族はその一頭の羊を殺した。
それに対して、森の南の部族は、森の北の部族から羊を三頭奪って殺した。
それに対して、森の北の部族は、森の南の部族から羊を十頭奪って殺した。
それに対して、森の南の部族は、森の北の部族の家を焼いた。その結果、森の北の部族の子供がひとり死んだ。
それに対して、森の北の部族は、大挙して森の南の部族の集会所に詰めかけ火をかけた。その結果、森の南の部族の数十人が犠牲になり、その多くが子供だった。
森の南の部族と森の北の部族は、それぞれ復讐を果たそうと、互いの村を行ったり来たりして緑の丘を血で染めた。

ここで争っている部族どうしは、多くの点でよく似ている。
どの部族の人々も、自分自身のためだけでなく、家族のため、友人のため、同じ部族の仲間のために戦う。戦うことに誇りを持ち、すごすご引き下がれば恥いることになる。自分の評判を命がけで守り、他者を行いで評価し、意見の交換を楽しむ。
どの部族であれ、完全に利己的であることは許されず、どの部族であれ、完全に無私であることが期待されることもない。
どの部族であれ、一般の人々が嘘をついたり、盗んだり、勝手に互いを傷つけたりすることは許されない。

これらの部族は、それぞれの流儀で道徳的である。にもかかわらず、しばしば流血を伴う激しい衝突を起こす。それは、これらの部族が根っから利己的だからではなく、道徳的な社会がいかにあるべきかという考えが相容れないためだ。

それぞれの部族の道徳は日常生活に染み込んでいる。部族にはそれぞれの道徳上の常識がある。新たな牧草地の部族どうしが争うのは不道徳だからではない。新たな牧草地での生活を、まったく異なる道徳的観点からとらえているからなのだ。

これが、ジョシュア・グリーンが「常識的道徳の悲劇」と名づけた問題である。
今日の私たちが直面する様々な問題、例えばマクロでは構造が変質しながらも解決しない国際紛争においても、ミクロでは「デジタル・トランスフォーメーション」をめぐる社内の対立においても、実は「常識的道徳の悲劇」が見受けられるのではないだろうか。
どちらの側も、道徳的であろうとすればするほど、対立は深まっていく一方で、問題の解決は見えない。

この問題をどのように解決するか?
これが、ジョシュア・グリーンの「モラル・トライブズ」の起点となる問いである。

そして、ジョシュア・グリーンは、その解決策を、伝統的な哲学とはかなり異質のアプローチにより、意外なものに注目する。
それは、行動経済学において始まり、最近のマーケティングにおいても注目されている「二重過程理論」である。

(続く)

ミンツバーグ の「戦略クラフティング」を改めて読む

昨晩、私が教えているビジネススクールの修了生・在校生が参加している勉強会のメンバーから、「戦略立案の現場において、実際のところ、どれくらいMECEなファクトベースの分析が使われているのですか。どんなプロセスで戦略は立案されるものなのですか」という質問をいただいた。
質問の背後に、「ビジネススクールを修了した後に実務で、学んだ知識が使いこなせていないのではないか」という焦りのようなトーンを少し感じた。

その質問に対して、私は以下のように思いついたことをコメントした。

「分析は確かに使うんだけれども、ファクトから論理をリニアに積み上げたら戦略が生まれるという感じではないんですよね。」

「定量的なデータも使うけれども、それとともに顧客の生の声といった定性のデータが重要ですよね。データをヒントにしながら洞察やアイディアの仮説をつくり。その仮説からさらに別のデータが気になり、そのデータをヒントに別の洞察やアイディアの仮説が出てきて、といった、行ったり来たりで、あっちこっちにジャンプする探索的な感じですよね。探索していきながら、徐々にいくつかの洞察やアイディアに思考が収斂させていく感じですかね。」

「そして、小さくトライしてみたときの意外な反応や失敗に、しばしば重要なヒントがあるんですよね。例えば…」

「作った戦略は、いわゆるロジカルシンキング的な説明が共有しやすいんだけれども、戦略を作るプロセスは、ロジカルシンキング的なものではなく、むしろミンツバーグがアナロジーで使った、陶芸家のクラフティングのような感じですかね。」

そんなきっかけで、久しぶりにHarvard Business Reviewの1987年7月-8月号で掲載された「戦略クラフティング」を再読した。
https://www.dhbr.net/articles/-/609

「だれかが戦略を計画立案(プランニング)している様子を想像してみよう。ほとんどの人が、論理的に考えているさまを思い浮かべるのではないか。例えば、オフィスで一人または数人の執行役員とそのスタッフたちが机を囲んで、行動の順序や進むべき方向について検討している姿である。そしてほかの人たちは、ここで決められた方向に従い、スケジュール通りに遂行することになる。

 その前提は、理性、合理的な統制、競合他社や市場に関するシステマティックな分析、自社の強みと弱みに関する分析、そしてこれらの分析に基づいた総合的な判断に従って、明快かつ具体的、そして網羅的な企業戦略を策定することにある。」

「次に、だれかが戦略を創作(クラフティング)している様子を想像してみよう。前とはまたく違ったイメージが浮かんでくるだろう。すなわち、工芸制作が機械生産と異なるように、戦略クラフティングも戦略プランニングとは異なる。

 工芸の世界は、長年の伝統技能、一心不乱な姿勢、ディテールへのこだわりによって、初めて完璧となる。戦略クラフティングについて我々の心に浮かんでくるイメージは、思考や理性ではなく、むしろ長い経験、素材への愛着、バランス感覚といったものである。形成していくプロセスと実行するプロセスとが学習を通じて融合し、独創的な戦略へと徐々に発展していく。」

 

戦略が生まれるプロセスを、私たちは、ともすれば前者のプランニングのイメージで捉えがちだが、実は後者のクラフティングのイメージで捉えた方が的確なのではないか、というミンツバーグの問題意識は、教科書的なMBA教育や戦略コンサルティングに対して思いっきりアンチテーゼを投げ込む形となり、発表された当時も、そして今でも、経営学者や経営戦略の立案に携わる方々の話題に上る論文だ。

 

以下、続けて「ミンツバーグがアナロジーで使った、陶芸家のクラフティングのような感じ」が伝わる箇所を備忘・共有のため引用する。

 

「陶芸家は作業場において、ろくろの上の粘土の塊を前に座る。むろんその心は粘土に向かっている。しかし同時に、自分が過去の経験と未来への展望との間に座していることを自覚している。過去にうまくいったケースといかなかったケースは忘れることはない。自分の作品、才能、顧客についてはもれなく承知している。ただし陶芸家である彼女は、これらについて分析するというよりも、むしろ感じ取っていると言えるだろう。

 この陶芸家の知識は暗黙のものといえよう。その手は粘土をいじっているが、これらの知識がその頭の中で飛び交っている。ろくろの上の作品がその形を現す際、おそらくはこれまでの作品の延長線上のものなのだろうが、時には従来の殻を破り、新たな方向を指し示すこともありうる。それでもなお、過去は厳然として存在しており、概して未来は過去を反映する。

 マネージャーが陶芸家であれば、戦略は粘土である。そして、自分のケイパビリティという過去と市場の可能性という未来の間に座っている。陶芸家と同じく、みずからが置かれた状況において、手持ちの経営資源に関する知識を活用することだろう。このプロセスこそ、私が主張する『戦略をクラフティングする』ことにほかならない。」

「いわゆる戦略プランニングは、その実体通りに理解すべきである。戦略を創造する行為ではなく、既存の戦略をプログラム化し、実施させる手段に過ぎないのだ。本質的にそれは、要素還元的な分析作業である。一方、戦略の創造は総合化である。したがって、戦略プランニングの場合、既存の戦略の化粧直しか、ライバルの戦略の模倣に終わる羽目になる。」

「もちろん、プランナーが戦略の創造にまったく貢献しないと申し上げているのではない。例えば、別の手段で、創造された戦略をプログラム化したり、客観的なデータをもれなく考慮するよう、戦略立案プロセスの最前線において適宜分析を加えたりする。また、他の人々を戦略的に思考することを後押しする。

 プランナーが現実に触れながら創造的に思考する人物である限り、戦略家たりうる。もちろん、形式的なプランニングの技法は無関係である。」

 「もしプランニングによって戦略を創造できると考えるマネージャーがいたならば、ビジネスの現場に関する知識に乏しいか、そのような知識を活用できるだけの創造性が欠けていると見て良いだろう。

 工芸家は、他人が見逃してしまうような事象を観察したり察知したりできるよう、鍛錬を重ねなければならない。戦略クラフティングにも同じことが要求される。すなわち、何か事が起こりかけた時には、それを鋭く感知し、最大限活用できるよう、多様な視点から観察できる能力を鍛えることである。」

「マンハッタン島の役員室であろうと、モントリオールの工房であろうと、戦略を管理するためのカギは、創発してくるパターンを認識し、それが形成されるのを促す能力である。

 マネージャーの職務は、特定の戦略をあらかじめ着想するのみならず、組織のそこかしこで形成されつつある戦略のパターンを認識し、適宜必要に応じて手をさしのべることである。ただし、庭に思いがけず生えてくる雑草のように組織内で創発されてくる戦略には、即座に抜き取ってしまうべきものもあるだろう。」

“プランナーが現実に触れながら創造的に思考する人物である限り、戦略家たりうる”とミンツバーグ さんに励ましていただいたので、私も戦略家たりうるよう頑張ろう、と改めて思った再読でした。

 

「膜=核=網」のモデルの整理

鈴木健氏が2013年に出版した「なめらかな社会とその敵」から、その鍵となる「膜=核=網」のモデルを整理するために、関連するテキストを再録します。

はじめに

「私的所有は、人類という種に固有の現象のように思われがちだ。だが、それは誤りである。私たちは、私的所有を生命の歴史の中に位置付けなければならない。そのことによって【網】的な世界から内部と外部を分離する【膜】と小自由度で大自由度を制御する【核】が、繰り返し生まれてくる描像がみえてくることだろう。」

 

【膜】について

「細胞膜の内側はひとつのシステムとして自律性を持ち、弱い意味での一人称性、主観性が立ち上がり始める。あらゆるプロセスが、膜を維持するという内的な目的のために手段となり、システムの反応は、その目的を達成するための認知プロセスになるからである。」

「細胞は、外部からリソースを取り込み、そこからエネルギーを得る。そして、不必要になった物質を外部に吐き出し、外部の不必要な物質が膜の内側に入らないようにして、複雑な代謝ネットワークを安全な膜の内部に閉じ込める。」

「外部から内部に取り込んだ物質や、内部のネットワークによってつくりだされた新しい化学物質は、膜に守られている。その膜は、あたかも細胞がそれらの物質を私的所有しているようにもみえる。」

 

 

【核】について

「まずは全体が大自由度のシステムである代謝ネットワークがあった。自由度とは、自由に変更できる変数の数のことで、大自由度なシステムとは、互いに変数が影響を与える複雑な系である。やがて、大自由度のダイナミックスをもつタンパク質が、DNAという小自由度のシステムから生成されるものとなり、2つの存在に分化することによって、DNAは制御するほうに、タンパク質は制御されるほうに住み分けられる。やがてDNAは、核という細胞内器官に取り込まれる。DNAと核は【制御】の生物学的起源である。」

「小自由度が大自由度を制御しているという見方は、制御が一方向的で、すっきりしたものがごちゃごちゃしたものを決めていると考えたがる人間の認知バイアスによる錯覚である。つまり、実際は全体としてしか理解できないものが、小自由度による大自由度の制御というみせかけの関係性が認知しやすいので、小自由度が制御の主体だと認識されてしまう。そう認識されることで、その権力がさらに強化される。」

 

単細胞の【膜】と【核】について

「細胞がもつ自己維持の仕組みは、必ずしも安定的なわけではない。だが、DNAが比較的安定していることによって、その情報を使って安定的な状態を再生できることが、ある程度保証されているのである。外部からの摂動によって細胞は常に壊れ続け、そして同時に修復され続けている。死につつ生きることによって生命は維持されている。」 

 

多細胞の【膜】と【核】について

「細胞分裂した複数の細胞が、新しい社会スタイルを身につけるようになる。役割分担をしながら共生する多細胞生物の誕生である。それまではひとつひとつの細胞が個体であったものが、細胞社会全体でひとつの個体となる。多細胞生物では、個体の外部から取り込んだリソースを内部の細胞の間で配分することになる。そのため、個体にっって害となるリソースや細胞を、細胞膜とは違ったレベルで排除する必要性が改めて生じる。自然免疫の誕生である。」


他者の制御について

「生物は、自らの身体だけではなく、リソースをもつ土地や空間に対しても境界を引きはじめ、そのなわばりに入った敵を排除するようになる。なわばりは【空間の所有感覚】の生物学的起源である。こうしてコミュニケーションがはじまると、他者の存在を制御できるという錯覚が次第に生まれてくる。」

「不確定な他者の振る舞いを理解するために、存在しないかもしれない他者の心を、あたかも存在するものとして推論する能力が生まれた。これが心の理論と呼ばれる能力である。」

「心の理論という能力を獲得することにより、人はうそがつけるようになった。うそをつくというのは、他者に誤った信念をうえつけることによって他者の振る舞いを制御しようという行為である。そして理解不能で制御不能な他者という存在を、あたかも理解可能で制御可能な存在としてみなすようになったのである。心の理論は、【他者の制御】の生物学的起源である。」 


自由意志について 

「不確実な振る舞いを理解できないのは、他者だけではない。自分の振る舞いもまた、自分自身にとって不確定で本質的には理解できない。およそ5万年ほど前、自分の振る舞いの原因を他者として推論する能力、すなわち自由意志と自己意識が生まれた。」 

 

【社会的な膜】について

「たくさんの人々が有限の土地に住んでいると、その土地やリソースをめぐり争いをするようになる。また、異なる集落や民族の間でなわばり争いが行われるようになり、国境が生まれる。国境は【社会的な膜】の生物学的起源である。」

 

【社会的な制御】について

「やがて人々はひとりの人物に権力を委ねることになった。王の誕生である。王という小自由度の権力を制御することによって、複雑で大自由度の社会全体を制御できるようになった。権力は化学反応ネットワークのように複雑なネットワークであり、王はDNAのように世界に単純さをもたらす。ちょうどDNAが生命を制御しているのが錯覚で、実際には複雑な化学反応ネットワークの小自由度を統括する焦点でしかないのと同様に、王は社会を制御しているわけではなく、王を通して社会が制御されているのである。権力はどこかに座があるわけではなく、ネットワークとして創発する性質にすぎない。王は、【社会的な制御】の生物学的起源である。」

 

【近代国家のメンバーシップ】について

「300年ほど前、ホッブスやルソー、ロックらの近代思想家が、社会契約という概念を発明した。社会のひとりひとりの構成員が相互に契約を無視美、社会を構成するという考え方である。社会契約が重要なのは、社会の構成員のメンバーシップが明確になったことである。社会契約論が前提となる社会では、契約主体である個々人が国家に明確に所属することになる。これが【近代国家のメンバーシップ】の生物学的な起源である。引き換えに、人々は国家を所有する感覚をもつことができるようにもなった。」

「また、近代資本主義は、個人の私的所有を認めたうえで、その相互契約関係から財産の帰属を決定することを促した。しかし資本主義は近代国家を背景として発達し、結局のところそうした財産は国家という枠組みによって守られているに過ぎない。近代資本主義と近代国家は、相互に依存しながら進展していくことになる。」

 

【網】について

「こうして生命史を概観すると、内部と外部を分離する【膜】と、小自由度で大自由度を制御する【核】が、繰り返し登場していることがわかる。最初は細胞レベルで、そして多細胞レベル、他者レベル、社会レベルと、この構造は反復的に起きている。」

「だが、こうした膜と核を生み出すのは背景にある複雑な反応ネットワークである。この複雑な反応ネットワークを【網】と呼ぼう。」

「網こそがこの世界の本姓であって、膜や核は仮の姿としてあるいは一時的な現象として生まれてくる。膜は網の中の一部分が切り取られた自己維持システムであり、核は網の中から全体に影響を与える小さな部分が生まれることによって生じる。だが、一旦膜や核が生まれた後に、その本性が網であることを知覚するのは難しい。」

「膜は資源をある空間に溜め込み、核はある空間内部の資源を制御することを可能にする。本書が試みようとしているのは、この膜をなめらかにし、溜め込む機能を弱くすることである。世界があくまでも代謝ネットワーク(網)であることを思い出し、越境する力強い流れを生み出すことである。」