及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

モーリス・メルロ=ポンティと安宅和人

今から三ヶ月ほど前に 安宅 和人さんの論考「知性の核心は知覚にある」が掲載されたDIAMONDハーバード・ビジネス・レビューが自宅に届き、それからしばらくして、この論考について熱く語られたコメントが私のfacebookのタイムラインに現れるようになりました。
当時、たまたま締切直前の準備作業のため、ざっと拝読したときに、もちろんタイトルが似ているのもあるのですが、その内容からも、私が大学時代に履修していた木田元先生の講義で聴いた、メルロ=ポンティの話を思い出しました。
当時の講義ノートや参考文献は残念ながら残っておらず、そしてそもそも当時の木田先生の講義は、学生に語りかけるのではなく、黒板に向かって板書しながら独り言をつぶやいているようなスタイルだったので、木田先生がおっしゃったことではなく、木田先生の授業に登場するメルロ=ポンティの話に影響されて私が考えた話と言った方が正しいのですが、確かこんな話だったかと思います。
  • 知覚という行為を、知覚する対象の側にあらかじめ客観的な真実があり、その真実を、知覚する主体である私たちが「読み取っている」という図式で捉えるのは必ずしも正しくない。 たとえば、「直径数センチのやや球体に近い物体」という情報が感覚器(たとえば視覚や触覚)から入ったときに、私たちが「これはりんごである」や「このりんごは赤い」といった意味を読み取るのは、その物体が視覚に入る前に、私たちに「りんご」や「赤い」といった概念があり、その概念に合致する特徴を持つものを、そうでないものと区別して意味を読み取ろうとする能動的な働きかけがあるからである。 「りんご」や「赤い」という概念がなければ、私たちはその物体に特に注意を払わず、それがぶらさがっている木の枝を見て「武器」という意味を読み取っていたかもしれない。
  • しかしながら、ならば私たちが持つ概念に真実があり、概念によって、知覚する対象をいかようにでも読み取ることができるかというと、それも違う。 私たちは、概念を組み合わせて、より抽象度の高い概念の連鎖、たとえばモデルやストーリーを構成する。そして、モデルやストーリーを持つことで、個々の知覚からもたらされる数多くの意味から、何に注目すべきかを見極めたり、その意味が示す複数の点の背景でどのような線がつながっているかを思い描いたりできるので、そのおかげで、私たちは、感覚器から入ってくる数多くの情報の処理に忙殺されずにすんでいる。 だからといって、そういったモデルやストーリーと整合性が高い意味を、感覚器に入ってくる情報にはありもしない特徴から無理やり見出そうとするのは、知覚が概念によって歪められている状態である。 たとえば、「前にこの木の枝に赤いリンゴがあり、それを食べたら空腹が満たされた」という記憶があったとしても、だからといって春のある日にお腹が空いたときにその木の枝に行って、「直径数センチのやや球体に近い物体」に、「前のように赤くはなく、形も少し違うか、これもきっと私の空腹を満たしてくれるリンゴだ」という意味を見いだすのは、知覚ではなく、概念(「この木の枝に来ればリンゴによって空腹が満たされる」というモデル)が、知覚の本来の働き(「これは木のコブである」という意味を読み取ることができたはずの働き)を歪めているからである。
  • 知覚する対象の中に真実があるのでも、知覚する主体の持つ概念を操る精神の中に真実があるのでもなく、主体(の精神)が対象に働きかけ、対象から主体(の精神)が学びとる双方向的で同時発生的な行為が、対象と主体(の精神)が出会う「身体」において発生している。これこそが知覚である。 たとえば、その木の枝の前に自らの身体を置き、「直径数センチのやや球体に近い物体」に対して自らの感覚器(+今日では「対象の全体と直接的に関わる状態を示すデータに基づいて分析されたデータ」もここに並ぶ)を制約なく開放し、その感覚器を通じて、多種多様な概念に基づいて対象に能動的に働きかけながら意味を読み取ることで、徐々に対象を見極め、学習を深めることができる。
私たちがあらかじめ概念を持ち、それに基づいて能動的に知覚する対象に働きかけないと、知覚する対象から意味を読み取ることはできないが、概念が相互に連鎖して立派なモデルやストーリーになると、今後はそのモデルやストーリーが先入観になってしまい、知覚する対象から正しく意味を読み取ることができなくなってしまう – ならば、まず知覚のメカニズムを解明してみよう、そこでポイントとなるのは、対象と精神が出会う「身体」で何が起こっているかというあたりのようだ、それが解明できれば、知覚がより優れた形で機能するように導く方法が見つかるかもしれない – これが、メルロ=ポンティが今から70年ほど前に「知覚の現象学」あたりで考えていたテーマだったのではないかと推察します。
このテーマは、人間の知的生産のプロセスの一部を代替する一連の情報技術 (例: ビッグデータ、機械学習、人工知能)が登場しつつあり、私たちの知的活動のあり方を見直すタイミングで、改めて注目すべきかと存じます。 安宅 和人さんは、モーリス・メルロ=ポンティが着手した「いかに知覚をより優れた形で機能するように導くか」というテーマの、正当な後継者ですよね。
…なんてコメントを、論考を拝読した直後に書こうと思っていたのですが、忙しさにかまけれタイミングを外してしまい、そのまま書けずにおりました。
そんな中で、先日、あるイタリア料理屋さんでばったり安宅さんとお目にかかり、それをきっかけに、この週末に、論考「知性の核心は知覚にある」を、もう一度拝読しました。 そこで再発見したのが、この論考のディテールの面白さと安宅さんの「親切さ」でした。
安宅さん自身がご専門の脳科学の研究から得られた知識や、経営戦略の問題解決の実践から得られた知恵、そして、一連の情報技術に対する本質的な理解に裏付けられたこの論考は、基本的なテーマとは別に、そこに登場するディテールが、それだけで別の論考も書けそうなくらい面白いです。脳科学の視点からの「理解」「記憶」の話や、課題解決の2つの型(「ギャップフィル型」と「ビジョン設定型」)の話などそれだけでもかなり面白かったです。
そして、知覚がより優れた形で機能するように導くためには、対象に対してファーッストハンドな(≒対象物とできるだけ直接的に接触する)状態に主体が自らの「身体」を置き、主体から対象への働きかけと対象から主体が学び取る経験を積み重ねていくことによって、主体が対象に働きかけるときに使う概念や概念の連鎖の質を高め、幅を広げていくことが鍵となるのではないか、というのがこの論考の中核的な主張なのですが、よく読むと、単にこの主張を展開するだけでなく、読者がそれを実現するために何をどうしたらよいかを、多面的な切り口から具体的に示し、わかりやすく伝わるように工夫していることに気づきました。安宅さん、実は親切な方なんですよね。
というわけで、遅ればせながら、かつまとまりもありませんが、 安宅 和人さんの論考「知性の核心は知覚にある」の感想コメントでした。

(2017年7月9日にFacebookに投稿したテキストを再掲)