及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

「常識的道徳の悲劇」ー「モラル・トライブズ」読書メモ 1

ジョシュア・グリーンの「モラル・トライブズ」は、次のような寓話から始まる。

森の東の部族は、共同の牧草地において、どの家も同じ数の羊を飼育している。
森の西の部族は、共同の牧草地において、家族の人数に応じて所有できる羊の数が決まる。
森の北の部族は、共同の牧草地はなく、どの家も自分の土地を所有していて、家々の土地の広さや生産性にばらつきがある。
森の南の部族は、共同の牧草地において、羊も共同で所有している。

いずれも部族においても、それぞれ異なる課題はあるものの、それぞれの部族の人々は「うまくいっている」と感じている。

あるとき、山火事で森が燃えたことがきっかけで、新たな牧草地が出現した。
近隣の部族たちはその土地をどう扱ったら良いかをめぐって争いが始まった。
森の南の部族は、新たな牧草地は全ての人々のものであり、共同で開発しなければならないと主張し、そのための新たな議会の結成を提案し、他の部族にも代表を送るよう提案した。
森の北の部族は、この提案をあざ笑い、森の南の部族が議会の結成を準備している間に、家を建て、石壁を築き、草地に羊を放った。
森の東と森の西の部族は、中には議会に代表を送った家もあったが、森の北の部族よりも控えめながらも、同じように自分たちの羊を飼い始めた。

あるとき、森の南の部族の羊が一頭、森の北の部族の牧草地に紛れ込んだ。森の北の部族はその羊を森の南の部族に返した。
それに続いて、森の南の部族の羊が一頭、再び森の北の牧草地に紛れ込んだ。森の北の部族は、今度は羊を返す手間賃を要求した。森の南の部族は支払いを拒否した。
それに対して、森の北の部族はその一頭の羊を殺した。
それに対して、森の南の部族は、森の北の部族から羊を三頭奪って殺した。
それに対して、森の北の部族は、森の南の部族から羊を十頭奪って殺した。
それに対して、森の南の部族は、森の北の部族の家を焼いた。その結果、森の北の部族の子供がひとり死んだ。
それに対して、森の北の部族は、大挙して森の南の部族の集会所に詰めかけ火をかけた。その結果、森の南の部族の数十人が犠牲になり、その多くが子供だった。
森の南の部族と森の北の部族は、それぞれ復讐を果たそうと、互いの村を行ったり来たりして緑の丘を血で染めた。

ここで争っている部族どうしは、多くの点でよく似ている。
どの部族の人々も、自分自身のためだけでなく、家族のため、友人のため、同じ部族の仲間のために戦う。戦うことに誇りを持ち、すごすご引き下がれば恥いることになる。自分の評判を命がけで守り、他者を行いで評価し、意見の交換を楽しむ。
どの部族であれ、完全に利己的であることは許されず、どの部族であれ、完全に無私であることが期待されることもない。
どの部族であれ、一般の人々が嘘をついたり、盗んだり、勝手に互いを傷つけたりすることは許されない。

これらの部族は、それぞれの流儀で道徳的である。にもかかわらず、しばしば流血を伴う激しい衝突を起こす。それは、これらの部族が根っから利己的だからではなく、道徳的な社会がいかにあるべきかという考えが相容れないためだ。

それぞれの部族の道徳は日常生活に染み込んでいる。部族にはそれぞれの道徳上の常識がある。新たな牧草地の部族どうしが争うのは不道徳だからではない。新たな牧草地での生活を、まったく異なる道徳的観点からとらえているからなのだ。

これが、ジョシュア・グリーンが「常識的道徳の悲劇」と名づけた問題である。
今日の私たちが直面する様々な問題、例えばマクロでは構造が変質しながらも解決しない国際紛争においても、ミクロでは「デジタル・トランスフォーメーション」をめぐる社内の対立においても、実は「常識的道徳の悲劇」が見受けられるのではないだろうか。
どちらの側も、道徳的であろうとすればするほど、対立は深まっていく一方で、問題の解決は見えない。

この問題をどのように解決するか?
これが、ジョシュア・グリーンの「モラル・トライブズ」の起点となる問いである。

そして、ジョシュア・グリーンは、その解決策を、伝統的な哲学とはかなり異質のアプローチにより、意外なものに注目する。
それは、行動経済学において始まり、最近のマーケティングにおいても注目されている「二重過程理論」である。

(続く)