及川直彦のテキストのアーカイブ

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「トロッコ問題」と「二重過程理論」ー「モラル・トライブズ」読書メモ2

20世紀の中頃の哲学(倫理学)に登場した「トロッコ問題」という問題がある。マイケル・サンデルの「白熱教室」でこの問題をめぐる議論を観た方もいらっしゃるだろう。

制御不能になったトロッコが、五人の鉄道作業員めがけて突き進んでいる。トロッコがいまのまま進めば、五人は轢き殺されるだろう。
あなたはいま線路にかかる歩道橋の上にいる。歩道橋は向かってくるトロッコと五人の作業員のいるところの中間にある。
あなたの隣には大きなリュックを背負った鉄道作業員がいる。五人を救うには、この男を歩道橋から線路めがけて突き落とすしかない。その結果男は死ぬだろう。
しかし男の身体とリュックサックで、トロッコが他の五人のところまで行くのを食い止められる。
ただし、あなた自身はリュックサックを背負っていないし、トロッコを止められるほど体も大きくないし、この男からリュックサックを受け取って背負う時間もない。
この見知らぬ男を突き落として死なせ、五人を救うことは、道徳的に容認できるだろうか?

この判断に対しては、やはり、ほとんどの人が「間違っている」と答えるそうである。

ところで、この問題にはもう一つのバージョンがある。トロッコを止める方法が、隣にいるリュックサックを背負った鉄道作業員を突き落とすのではなく、分岐器のスイッチを押して、トロッコの進む先を、五人の鉄道作業員がいる今の線路ではなく、一人の鉄道作業員がいる待避線に切り替えるというものである。スイッチを押すことによって、待避線にいる一人の作業員は轢き殺されてしまうが、五人の作業員は救うことができる。

このバージョンになると、この判断に対して正しいとする意見が出てくる。そう、同じ人が、前者は間違った判断だと考え、後者は正しい判断だと考えるのだ。しかし、この二つのバージョンは、本質的には同じ問題である。それに対して、私たちは、あるときは正しいと考え、あるときには間違っていると考える。なぜこの矛盾が生じるのか?

この矛盾は、これまでの哲学の「トロッコ問題」に対する模範解答ーベンサム的な功利主義(最大多数の最大幸福)と、カント的な義務論(人間を手段ではなく目的として扱うべし)の間での議論ーでは解決することができない。

ジョシュア・グリーンは、そこに意外なアプローチを持ち込む。それはfMRI(functional magnetic resonance imaging, 磁気共鳴機能画像法)による脳のスキャン。

このトロッコ問題の二つのバージョンをベースとしたストーリーを被験者に読んでもらい、判断してもらうときに脳をスキャンすることにより、「非人身的」なストーリー(≒分岐器のスイッチを押す)を読んだ際には主としてDLPFC(前頭前野背外側部)が活動するが、「人身的」なストーリー(≒隣にいる鉄道作業員を突き落とす)を読んだ際には、DLPFCとともにVMPFC(前頭前野腹内側部)が活動することを実証した。

神経科学のこれまでの研究から、DLPFCは人間の認知制御を処理し、VMPFCは人間の情動的な反応を処理することから、この実験は、人間が、同じ問題に対して二つの異なるプロセスで思考を展開することを示している。

グリーンは、この二つのプロセスを、行動経済学の二重過程理論をベースに、「オートモード」と「マニュアルモード」と名づける。

「オートモード」のときは、情動的なものに基づいて効率的に判断が展開される。そして、「オートモード」を使って解けない問題に対しては、「マニュアルモード」を使うことで、理性的なものに基づいて柔軟に問題解決が展開される。

そして、同じ部族の中の《私》対《私たち》の問題のときは、「オートモード」が有効だとされる。
共感、愛情、友情、感謝、名誉心、羞恥心、罪悪感、忠誠、畏怖、当惑といった情動によって自分の利益よりも他者の利益を優先したり、怒りや嫌悪の情動によって《私たち》より《私》を大事にしすぎる人を避けたり、罰しようとしたりすることによって、部族内での嘘や欺き、盗み、殺人は大幅に減り、《私たち》は繁栄できることになる。

ところが、前回紹介した「常識的道徳の悲劇」のように、異なる部族の間の《私たち》対《彼ら》の問題のときは、『私たちの利益』対『彼らの利益』や『私たちの価値観』対『彼らの価値観』が関わることになるが、このような場面では、「オートモード」には《彼ら》よりも《私たち》を優先する傾向があり、「オートモード」が機能する前提となる協力条件や、指導者、文書、制度、慣習における『固有名詞』も部族間で異なるため、「オートモード」は必ずしも有効ではなく、むしろ問題を解決から遠ざけることとなる。

グリーンは、《私たち》対《彼ら》の問題のときには、「マニュアルモード」に切り替えるのが解決の鍵だと考える。そして、「マニュアルモード」に切り替えるべきタイミングを「議論が存在するとき」と提案する。
部族間の意見が対立するとき、それはほぼ例外なく、オートモードが違う意見を言っていて、「情動の道徳羅針盤が反対の方角を指している」ことが原因である。とするならば、あらゆるやり方で《私たち》が正しくて《彼ら》が間違っているように考える傾向を持つ「オートモード」は、問題を悪化させるばかりである。

しかしながら、一旦議論が始まり意見が対立してしまうと、そこから「マニュアルモード」に切り替えることは、実際ににはなかなか難しいものでもある。
そこで、具体的な解決策として、グリーンは、「説明の深さの錯覚」の利用を提唱する。すなわち、人間が持っている、そのテーマに関する仕組みを知らなくてもそのテーマを理解しているように感じる錯覚を突くアプローチー例えば、自らが議論で強硬な姿勢で主張しているテーマについて、例えばその仕組みを説明してみることを求める質問をすることによって、「マニュアルモード」に切り替えるのを促すといったものーである。実際にこの質問を実験したところ、被験者の強硬な姿勢が緩和されたとのことである。

これまで私たちの社会で有効なアプローチとされてきた議論に基づく問題解決は、この「オートモード」と「マニュアルモード」の切り替えができない限りは、実は私たちが思っているほど(あるいは薄々気づいていた通り)有効ではないのかもしれない。
議論が始まってしまう前に、情動を封じて「マニュアルモード」に切り替えるアプローチを、私たちはもっと磨き込まなければならないのかもしれない。