及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

「β版による学習」と「実験に基づく意思決定」と「リーン・スタートアップ」

はじめに

 エリック・リースの「リーン・スタートアップ」を読んだ (Ries 2011)。

 この本が2012年に日本で刊行されたとき、私の周囲でもこの本は話題になっていたのだが、当時私は、「リーン・スタートアップ」を、昔から知られている概念を別のキーワードで語り直す『車輪の再発明』系の概念に感じたこともあり、それほど注目していなかった。

 その後、2010年代後半頃に、「MVP(Minimal Viable Product: 実用最小限の製品)」や「Pivot」という「リーン・スタートアップ」に登場する概念を使うスタートアップ企業の経営者や投資家、大企業の中の新規事業開発の責任者などと接するようになった。彼ら・彼女らと会話する中で、「リーン・スタートアップ」は、私がそれまで取り組んできた、後述する「β版による学習」や「実験に基づく意思決定」の概念と近いと感じるとともに、「リーン・スタートアップ」の概念やフレームワークが、新規事業開発に取り組む人々にとって共通言語的な存在になっていることに気づいた。ただし、断片的に目にする概念やフレームワークについて既視感があったこともあり、これまでは読書の優先順位が高くなってこなかった。

 ところが、読んでみたらところ、概念についてはやはり既視感はあったが、説明のわかりやすさや、このアプローチを導入する際の組織的な抵抗への目配りとその解決方法の提案などフレームワークのきめ細かさにおいて優れた本であると感じた。

 というわけで、「β版による学習」と「実験に基づく意思決定」と「リーン・スタートアップ」の三つの近接する概念を橋渡しする整理をしてみることにする。

「β版による学習」

 「β版による学習」は、私が創業し当時所属していた電通コンサルティングが新規事業の開発を支援する際に重視していたアプローチであり、2011年4月に開催したセミナー「『業態変革のイノベーション』〜マーケティング・ドリブン・ビジネス・デザイン〜」や、その後DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー主催のセミナー、日本マーケティング協会主催のセミナーなどで提唱してきた「マーケティング・ドリブン・ビジネス・デザイン」を構成する三つのステップのうちの一つを構成するものだった。このアプローチを紹介した「しくみづくりイノベーション」の中には次のように書かれている。

“ 顧客の理解が正しかったのか、それをもとにして開発された製品やサービスのあり方は正しかったのか、あるいはその販売方法、そもそものビジネスモデルが適切なのかどうか。それらへの解答は、製品やサービスが市場に投入され、ある程度の期間が過ぎるまではわからない。だからといって、顧客の需要など考えずに、供給側の論理で製品やサービスを提供し、気に入ってもらえればビジネスが成立するといったギャンブルをするのは効率がいいとはいえない。
どうしたらよいのだろうか。前章でみたように、製品やサービスの完成を待たず、顧客に開発や製造のプロセスに参加してもらい、共学習・共進化することで、よりよい製品へと双方の期待と現実を収束させるためのエコシステムを構築すべき、というのがわたしたちの用意した解答だ。その発想の原点にあるのは、「ベータ版」という実践手法である。”

(電通コンサルティング 2012)

 「β版による学習」のヒントの一つは、私が2004年から2006年に早稲田大学ビジネススクールで学んでいたときに出会った、MITのエリック・フォン・ヒッペル教授のイノベーションに関する一連の理論だった。例えば「Sticky Information and the Locus of Problem Solving: Implications for Innovation」という論文 (von Hippel 1994)においては、イノベーションの鍵となる情報がユーザーの利用場面に「粘着」しているため、プロトタイプに基づくユーザーと反復的な学習プロセスを重ねることの有効性を提案している。

 このアプローチは、2000年代前半頃からソフトウェアやウェブサイトの開発において注目されるようになり、当時台頭していたGoogleがこのアプローチをGoogle Mapの開発で活用したことから、新規事業開発に携わる人々の多くに注目されるようになっていた。当時新規事業開発の支援をしていた電通コンサルティングでも、シナリオを構築した「後」の学習プロセスを重ねる時間と資源をいかに確保できるかが、「筋の良い仮説」を「成功する事業」に転換するための鍵と考えていた。

「実験に基づく意思決定」

 この本を出版した一年後、私は、ビジネス実験に基づく意思決定を支援する事業を展開するAPT(Applied Predictive Technologies, 現在はMastercardに買収され、Mastercard Data & Servicesとして事業を継続)に移り、日本事業の立ち上げに携わったのだが、この事業の創業者の一人であるジム・マンジはその著書「Uncontrolled(日本語未訳)」の中で、かつてコンサルタントだったときに「実験」の力に気づいたきっかけについて述べている。

“ The company believed consumers would positively receive this program, but the open question was whether it would lead to enough new sales to justify the substantial extra costs it would require. I developed a complicated analytical process to predict the size of the sales gain, including qualitative and quantitative consumer research, competitive benchmarking, and internal capability modeling. With great pride I described this plan to a partner in our consulting firm, who responded by saying, “Okay . . . but why wouldn’t you just do it to a few stores and see how it works?
This seemed so simple that I thought it couldn’t be right. But as I began a series of objections to his question, I kept stopping myself mid-sentence. I realized that each of my potential responses was incorrect: an experiment really would provide the most definitive available answer to the question.

 ( その会社はこのプログラムが消費者に受け入れられると信じていたが、問いは、このプログラムが、必要とされる多額の追加コストを正当化できるだけの追加的な売上につながるかどうかであった。そこで私は、消費者の質的・量的調査、競合他社のベンチマーキング、社内のケイパビリティのモデリングなど、複雑な分析プロセスを駆使して、得られる売上の大きさを予測した。その予測を当時働いていたコンサルティング会社のパートナーに誇らしく説明したところ、彼は意外な返事をした。「なるほど。ところで、なぜ数店舗でそのプログラムを展開してみて、効果があるかどうかを見ないのですか?」
 あまりに簡単なことなので、そんなはずはないと思った。しかし、彼の質問に対する反論を始めたとき、私は何度も途中で自分を止めざるを得なかった。自分が答えようとしたことが間違っていることに気づいた。確かに実験すれば、問いに対して最も明確な答えが得られる。)”

(Manzi 2012)

 そういえば、ここでジム・マンジが語る「そんなはずはないと思った」という戸惑いは、その後APTの事業を展開する中で、私自身、しばしば目撃することとなった。

 回帰モデルに基づく予測が交絡因子を排除できておらず、それゆえ予測と現実がしばしば乖離し、その補正のために多くの分析者の工数が泥沼のような精度を高める取り組みに投入されることは、データに習熟している経営者や分析者の方々ならばよく知っているはずなのだが、そんな方々でも、実験に対しては、「自らの知性を発揮して問題を解くことを避けて、巻末の答えを見ようとするかのよう」という第一印象を持つらしい。目的合理的に考えると、実験によって得られる意思決定の精度は高く、無用な分析者の工数を抑制でき、そして実験はやってみると意外とコストがかからないのだが、それに気づくまでの時間差は、もしかしたら私たちの「問題解決」というものに対して持つ先入観のせいなのかもしれない。

「響きのよいシナリオが暴走する」問題

 2000年代中盤から2010年代後半まで私が「β版による学習」と「実験に基づく意思決定」に情熱を持って取り組んできた理由の一つは、私自身がプランナーやコンサルタントとして関わる中で、経営の意思決定においてしばしば目にしてきた、「響きのよいシナリオが暴走する」問題を解決したいと思ったからだ。
 「賢い人たち」が集まって議論を重ねると、まさに自社の意義や資源に適合し、世の中の充足のニーズを解決する響きの良いシナリオが出来上がっていくのだが、そのシナリオの響きをさらによくするよう磨き上げていくうちに、そのシナリオが、顧客やその他のステイクホルダーがついてこないフィクションになっていた、ということがしばしば発生する。そして、このような状況は、「賢い人たち」が意味合いのはっきりしないデータを創造的に解釈し、その裏側で自らのポジションに少しずつ有利に持っていけるように、議論を展開しようとする中でしばしば発生する。

 本来ならば、新たに取り組もうとすることの成功を左右するクリティカルな論点が何かを特定し、それらの論点に適合するデータを取得する努力をし、そうやって取得されたデータに基づいて議論を展開すべきところではないかと思われる場面でも、判断を保留してデータを取得するよりも、その場で「限定された合理性」を許容しながら創造的な解釈を展開し、議論の参加者の間で時間を重ねることで納得感(あるいは妥協)を作り、合意が形成されていく。自らの知性を発揮して問題を解くことを避けて、巻末の答えを見ようとする、あるいは、その場で勇敢に意思決定をするのを回避するのが卑怯だと言わんばかりだ。

 このようにして合意を形成されたシナリオの中には、複数の変数の間で仮定と仮定を重ねた「風が吹けば桶屋が儲かる」型のモデルが、それぞれの変数の間のパス係数が1に近いのか0に近いのかによってその結果が大きく変わるのにもかかわらず、そのパスの矢印が引かれているだけで「因果関係がある」ものとなっているものをしばしば目にする。

 この「響きのよいシナリオが暴走する」問題は、「リーン・スタートアップ」で「宇宙船の発射に近い事業計画」として語られている。

“ スタートアップの場合、自動車の運転よりも宇宙船の発射に近い事業計画が多すぎると思う。実行すべき手順とその結果、期待される成果が事細かに記述されているし、ロケットの発射計画と同じように、ごくわずかでも仮説がまちがっていると悲惨な結果がもたらされる計画になっている。
 たとえばあるスタートアップは、新製品に何百万人という規模で顧客がつくと予想していた。立ち上げは世の中の注目を集め、計画どおりの滑り出しだった。しかし、顧客は予想ほど集まらず、その時点でインフラストラクチャーと人員、サポートについて想定顧客に対応できる規模を用意していた会社は状況の変化に対応できずに終わってしまった。計画を忠実かつ的確に実行することに成功した結果、「失敗を達成」してしまったのだ──ふたを開けてみれば計画に大きな不備があったために。”

(Ries 2011)


「実験による意思決定」による「β版による学習」の推進≒「リーン・スタートアップ」

 私自身がこれまで取り組んできた概念を使って「リーン・スタートアップ」を整理するのはいささか我田引水的にはなるが、「リーン・スタートアップ」を、「響きのよいシナリオが暴走する」問題を解決するために提案された、「β版による学習」を「実験による意思決定」により推進しようという概念とそれを支える一連のフレームワークであると整理しても、それほど本質を外していないのではないだろうか。

 例えば「リーン・スタートアップ」の以下の記述は、「β版による学習」の「実験による意思決定」による推進を提案していると言えよう。

“ これに対して、スタートアップをうまく操縦できる方法を教えるのが、リーン・スタートアップ方式である。リーン・スタートアップでは、さまざまな仮説に基づいて複雑な計画を立てるのではなく、構築─計測─学習(Build Measure Learn)というフィードバックループをハンドルとして継続的に調整を行う。ピボット(pivot)をいつすべきなのか、そろそろすべきなのか、あるいはまた、いまのまま方向性を維持して辛抱(persevere)すべきなのかは、この操縦プロセスを通じて学ぶことができる。順調にエンジンの回転が上がったあと、スケールアップして事業を急速に成長させるわけだ。その方法もリーン・スタートアップ方式には用意されている。”

(Ries 2011)

“ リーン・スタートアップでは、スタートアップが行うことを「戦略を検証する実験」としてとらえなおす。戦略のどの部分が優れていてどの部分が狂っているのかを検証する実験だ。実験は科学的手法にのっとって行う。まず、何が起きるのかを予想する仮説を組みたてる。次に、予測と実測とを比較する。科学的実験が理論に基づくように、スタートアップの実験はビジョンに基づいて進める。ビジョンを中心に持続可能な事業を構築する方法を明らかにすることが実験の目標である。”

(Ries 2011)

 「β版による学習」の「実験による意思決定」を、それを推進するための資源投入にフォーカスし、そのために、「響きのよいシナリオ」を磨きこむ時間と資源を抑制し、そのシナリオを体現するプロダクトの機能を揃えたり、それぞれの機能の品質を追求する時間と資源を削ぎ落とした「MVP(Minimal Viable Product: 実用最小限の製品)」に基づく実験を通じていかに顧客との反復的な学習プロセスの回数の時間をより多く確保するかーこのシンプルだが見逃されがちなアプローチを、時間と資源を目的合理的でないところにおいて削ぎ落とすところのキーワードにトヨタ生産方式の「リーン」の概念を使って印象的に説明しているところがうまい。
 概念の提唱においてはオリジナリティも重要であるが、それとともに、世の中にどこまで普及させることができたかも重要である。その意味では、スタンフォード大学のステファン・ブランク准教授が、

“ 考案からわずか数年であるにもかかわらず、この手法の主要概念である「実用最小限の製品」や「ピボット」は瞬く間に起業の世界に根を下ろした。これらを取り入れるために、ビジネス・スクールもすでにカリキュラムの変更に着手した。“
(Blank 2013)

とコメントしている状況を出版後数年で実現し、今日の日本でも、私自身スタートアップ企業やその投資家と協業する中で、「MVPに基づいて何を学習したか? その学習の解像度を高めるために次に何をすべきか?」といった議論を日常的に行なっている状況を鑑みると、この概念は、実務と学術のコミュニティにおいても、鍵となる概念であるという合意形成が進んでいるものと言っても良いだろう。

 ただし、学術研究においては、まだレビュー的な研究が多く、実証的な研究については数が少なく、これからの取り組みが期待される領域でもあります。日本でもこの領域の研究が進むと良いですね。

 

  • Blank, Steven G. (2013) “Why the Lean Start-Up Changes Everything,” Harvard Business Review , May 2013, Harvard Business Publishing. (有 賀 裕子訳 (2013) 「リーン・スタートアップ:大企業での活かし方 GE も活用する事業開発の新たな手法」『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』38(8), 40-51, ダイヤモンド社)
  • Manzi, J. (2012). Uncontrolled: The surprising payoff of trial-and-error for business, politics, and society. Basic Books.
  • Ries, Eric. (2011) The Lean Startup: How Today’s Entrepreneurs Use Continuous Innovation to Create Radically Successful Businesses, Currency. (井口耕二訳 (2012) 『リーン・スタートアップ』 日経 BP)
  • von Hippel, Eric (1994), "Sticky Information and the Locus of Problem Solving: Implications for Innovation,” Management Science, 40(4), 429-439.
  • 電通コンサルティング (2012) 『しくみづくりインベーション』 ダイヤモンド社