及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

アレンジメント(アジャンスマン・アセンブラージュ)についてのメモ

生成AIと消費者行動について考えている流れで、Novak and Hoffman (2019)を読んでいる中で、"our view of consumer relationships with objects is grounded in assemblage theory"とあり、その中でDelueze and Guattari (1987)が言及されていた。
Delueze and Guattari (1987)って...やはり『千のプラトー』の英語版ですよね。あれ、「アジャンスマン」なんて概念あったっけ。
というわけで、30年ぶりに『千のプラトー』を読んでみた。
 
『千のプラトー』の最初に出てくるこの文章は、多くの読者にとって最も印象に残る部分だろう。あるいは、このあたりまで読んで、そのままの読者が多いという方が正確な表現か(笑)
「一冊の本には対象もなければ主題もない。本はさまざまな具合に形作られる素材や、それぞれ全く異なる日付や速度でできているのだ。本を何かある主題に帰属させるということはたちどころに、さまざまな素材の働きを、そしてそれら素材間の関係の外部性をないがしろにすることになる。地質学的な運動のかわりに、人は神様をでっちあげたりする。あらゆるものと同じで、本というものにおいても、文節線あるいは切片性の線があり、地層があり、領土性がある。また逃走線があり、脱領土化および脱地層化の運度もある。こうしたもろもろの線にしたがって生じる流出の速度の比較的な差が、相対的な遅れや、粘性や、あるいは逆に加速や切断といった現象をもたらすのだ。こうしたものすべて、測定可能なもろもろの線や速度は、一つのアレンジメントを形成する。本はそのようなアレンジメントであり、そのようなものとして、何ものにも帰属しえない。それは一個の多様体なのだ」 (宇野邦一他訳『千のプラトー』河出書房新社, 1994年)
 アレンジメントを、安易な還元(例" 何かある主題に帰属させたり、「神」のような人間にとってわかりやすいモデルに当てはめたりすること)をせずに、いかに多様体として記述するかーこれこそが、哲学者ドゥルーズと精神科医ガタリが『千のプラトー』の前の『アンチ・オイディプス』から取り組んでいたテーマだ。
ちなみに、この部分についてオリジナル、英語訳と照らしあわてみると...
 
オリジナル:
"Un livre n'a pas d'objet ni de sujet, il est fait de matières diversement formées, de dates et de vitesses très différentes. Dès qu'on attribue le livre à un sujet, on néglige ce travail des matières, et l'extériorité de leurs relations. On fabrique un bon Dieu pour des mouvements géologiques. Dans un livre comme dans toute chose, il y a des lignes d'articulation ou de segmentarité, des strates, des territorialités; mais aussi des lignes de fuite, des mouvements de déterritorialisation et de déstratification. Les vitesses comparées d'écoulement d'après ces lignes entraînent des phénomènes de retard relatif, de viscosité, ou au contraire de précipitation et de rupture. Tout cela, les lignes et les vitesses mesurables, constitue un agencement. Un livre est un tel agencement, comme tel inattribuable. C'est une multiplicité." (Deleuze and Guattari 1980)
英語訳:
”A book has neither object nor subject; it is made of variously formed matters, and very different dates and speeds. To attribute the book to a subject is to overlook this working of matters, and the exteriority of their relations. It is to fabricate a beneficent God to explain geological movements. In a book, as in all things, there are lines of articulation or segmentarity, strata and territories; but also lines of flight, movements of deterritorialization and destratification. Comparative rates of flow on these lines produce phenomena of relative slowness and viscosity, or, on the contrary, of acceleration and rupture. All this, lines and measurable speeds, constitutes an assemblage. A book is an assemblage of this kind, and as such is unattributable. It is a multiplicity.” (Deleuze and Guattari 1987)
...なるほど、「アレンジメント」≒ "agencement (フランス語)"≒ "assemblage (英語)"というわけで、Novak and Hoffman (2018)のassemblage theoryが参照しているのは、『千のプラトー』の「アレンジメント」という理解で良さそう。
それでは、本来多様体であるアレンジメントを、安易な還元を避けて記述するとどのようになるのだろうか。その具体例が、これに続く以下のテキストから始まる膨大な記述となる。
「機械状アレンジメントは地層の方へ向けられており、地層はこのアレンジメントをおそらく一種の有機体に、あるいは意味作用を行う一個の全体に、あるいは一個の主体に帰属しうる一つの規定にしてしまう。しかしこのアレンジメントはまた器官なき身体の方へも向けられており、こちらは絶えず有機体を解体し、意味作用のない微粒子群や純粋な強度を通わせ循環させ、そして自らにもろもろの主体をたえず帰属させ、それらの主体には強度の痕跡として一個の名前だけを残すのだ」 (宇野邦一他訳『千のプラトー』河出書房新社, 1994年)
アレンジメントが「機械状アレンジメント (agencement machinique)」と言い換えられ、アレンジメントをある一個の主体に帰属させるのとは逆の方向として「器官なき身体 (corps sans organes )」が登場するが、これは『アンチ・オイディプス』の以下の部分に通じている。
「<それ>は作動している。ときには流れるように、時には時々止まりながら、いたるところで<それ>は作動している。<それ>は呼吸し、<それ>は熱を出し、<それ>は食べる。<それ>は大便をし、<それ>は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して<それ>と読んでしまったことは、なんたる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、〔他の機械を動かし、他の機械に動かされる〕機械の機械なのである」(市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社, 1986年)
「欲望機械は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、この生産そのものにおいて、身体は、組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織を持たないことを苦しんでいる。いっそ、全く組織などない方がいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として、『不可解な、直立状態の停止』がやってくる。そこには、『口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食堂もない。胃もない。腹もない。肛門もない。』もろもろの自動機械装置は停止して、それらが文節していた非有機体的な塊を出現される。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである」 (市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社, 1986年)
一個の主体を起点として、私たちが慣れ親しんだテーマやモデルに還元されるように閉じられていく記述にとどめず、そのようなあり方をゼロベースで批判する「器官なき身体」的な批判を経て、より開かれた記述を試み続けることーそれを継続することにより、アレンジメントの多様性を担保していくアプローチが、Novak and Hoffman (2019)が言及しているassemblage theoryのベースになっているようである。
 
Novak and Hoffman (2019)は、消費者とオブジェクトの関係を捉える際に、私たちは以下のようなモデルに慣れ親しんでいて、それらのモデルが、消費者とスマートオブジェクトの間のインタラクションについての記述を閉じている可能性を指摘している。
  • 消費者はオブジェクトに関わる際に、オブジェクトに単なる機能以上の意味性を感じる、あるいは、特定のオブジェクト(例: ブランド)に対して、単なる取引関係を超えた感情(例: パートナーである感覚)を抱く
  • 消費者は、コンピュータがあたかも人間のように振る舞うことにより良好な関係を構築しやすくなる
  • オブジェクトは、消費者と関わることによってはじめてその能力が発揮される
これらのモデルは、いずれも消費者を起点とした記述である。こういった記述を批判し、消費者とスマートオブジェクトの間のインタラクションを、両者を俯瞰する視点から記述することによって見えてくる視点があるのではないかとNovak and Hoffman (2019)は問題提起し、その具体的なアプローチを提案しているが、こちらについては別の機会で紹介したい。
 
参考文献
Deleuze, Gilles, and Félix Guattari (1972). L’Anti-Oedipe: capitalisme et schizophrénie. Paris: Les Editions de Minuit. 3. (市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社, 1986年)
Deleuze, Gilles, and Félix Guattari (1980). Mille Plateaux. Paris: Les Editions de Minuit. (宇野邦一他訳『千のプラトー』河出書房新社, 1994年)
Deleuze, Gilles, and Félix Guattari (1987). A thousand plateaus. Translated by Brian Massumi. Minneapolis: University of Minnesota Press.
Novak, Thomas P., and Donna L.Hoffman (2019). Relationship journeys in the internet of things: a new framework for understanding interactions between consumers and smart objects. Journal of the Academy of Marketing Science, 47, 216-237.