及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

柄谷行人の「情報革命」についての見解

柄谷行人(2022)『力と交換様式』 岩波書店 の中から、いわゆる「情報革命」についてシニカルかつ本質的に言及している部分を備忘のために引用。

 

“ …たとえば、産業資本の場合、貨幣と労働力商品の交換において、労働者・労働組合の同意がなければならない。では、いかにしてそこに剰余価値が生じるのか。それは、資本が、技術革新や協働化を通して労働生産性を上げ、労働力の価値を実質的に下げることによってのみ可能になる。その意味で、商人資本では、利潤となる差異が空間的に見出されるのに対して、産業資本では、差異は時間的に創り出されるといってよい。

 したがって、産業資本の蓄積を可能にするのは、二重の意味でのexploitation、つまり、開発=搾取である。ここに産業資本特有の原理がある。

 その意味で、資本は根本的に商品資本的である。とはいえ、資本制経済を飛躍的に発展させたのは、差異を空間的に”発見”するというより、時間的に“創出”する産業資本であった。そして、そのことが「産業革命」をもたらしたといってよい。それは、石炭を用いた蒸気機関に代表される第一次産業革命、電気及び石油にもとづく第二次産業革命、さらに、コンピュータにもとづく第三次産業革命、として大別される。

 現在、この第三次革命がかつてない変化をもたらしつつある、とみなされている。そして、それは『資本論』には見いだせないような、現代的な問題である、と。しかし、そうではない。『資本論』は、資本が存続するために、絶え間なく差異をexploit(開発=搾取)するほかないことを理論的に示したのである。そして、そのことは、資本制経済を「生産様式」からだけではなく、「交換様式」から見ることによってのみ可能となった。にもかかわらず、今日でも支配的な見方は、「生産様式」に注目することである。

 たとえば、今日、電子機器(エレクトロニクス)やAI、情報産業が、いかに社会と人間を変容させるかがしきりと議論されている。しかし、そのような議論は、すでに1950年代からなされていた。たとえば、マーシャル・マクルーハンは、テレビというメディアがもたらす社会的変化に着目した(『人間拡張の原理―メディアの理解』1964年)。彼は、テレビの時代とともに、人々の感受性がラジオの優位にあった時代からいかに変化したかを強調した。すなわち、”ホット”から”クール”に。

 しかし、そのような変化は、たんにメディアの変化によるのではない。また、それが”人間拡張”をもたらしたわけではない。マクルーハンのような見方は、結局、社会の歴史を生産様式から見ることから来ている。そこには、交換様式の観点が欠けている。例えば、ラジオの時代に起こった変化は、交換様式から見ると、C〔商品交換(貨幣と商品)〕が優越的となってA〔互酬(贈与と返礼)〕を支配するようになったことを示している。そして、テレビの時代では、Cの力がいっそう”拡張”されたといってよい。また、そこから見れば、それ以後の社会において何が生じるかも、ある程度予測できるだろう。”  (pp. 294-295.)

 

“ そもそも、資本の価値増殖をもたらすのは、物の生産自体ではなく、それがもたらす差異化である。いいかえれば、資本制の下での生産とは、むしろ差異の生産なのだ。その意味で、商人資本と産業資本の違いは決定的ではない。そうマルクスは考えていた。そして、そのことは、製造業が優位にあった19・20世紀よりも、現在の情報=差異を追求する資本主義経済において顕在化したといってよい。今や、ここから見ると、『資本論』は、第一次・第二次産業革命を材料にしながら、それよりもはるか先の変化を見通していたといえる。

 別の観点からいうと、工業的産物が有形(tangible)であるのに対して、運輸がもたらす財(資産)は無形(intangible)である。本来、資本にとってはどちらであっても構わない。ただ、20世紀では有形のものが支配的であり、今日では無形の物の方が支配的となってきた、といえる。つまり、工場や店舗といった有形の資産ではなく、データやアルゴリズム、ブランド、特許、研究開発といった無形の資産の割合が増加した、ITプラットフォーム企業の台頭が示すように、いわば、「資本のない資本主義」が出現したのである。

 このように、産業資本の対象が物から情報に、有形から無形に転化したことは画期的に見える。しかし、それらは、マルクスの『資本論』が示したこと、すなわち、資本の自己増殖を可能にするのは、絶え間ない「差異化」だという認識を超えるものではない。産業資本の対象が物から情報に、有形から無形に転化したことは、画期的な変化=差異のように見えるが、そもそも資本が追求するのは、”差異”であり、したがって”無形”なのだ。また、それを推進する力は、人でも物でもなく、”物神”にある。

  かくして、資本は存続するために、絶え間なく差異=情報を追求しなければならない。そして、物質的であろうと非物質的であろうと、差異化が可能であるかぎり、資本は存続する。実際。それが今日の情報革命をもたらしたのであり、それが世界各地に急速に浸透しつつあるのだ。それは、これまでにあった世界各地の文化的差異を消去しつつある。それは、資本の存立する基盤を損なうことにもなる。ゆえに、それが今後に資本を新たな危機に追いやることは疑いない。しかし、後述するように、それが必然的に物神の死滅をもたらすわけではない。  (pp. 297-299.)