及川直彦のテキストのアーカイブ

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柄谷行人による「反証可能性」についての説明

カール・ポパーの「反証可能性」について、その本質を明快に説明していた柄谷行人の説明がありましたので、該当する部分の一部を備忘のため引用します。

 

“ たとえば、デカルトはすでに仮説を立て、それを検証する実験を考案することを主張している。したがって、たんに仮説・推測の先行性(投げ入れ)を主張することがカントの独創なのではない。問題は、仮説の真理性が観察・実験によって検証できるかどうかにある。そこにヒュームの懐疑があらわれる。なぜたかだが有限回の実験が一般的な法則を保証するのか、と。

 カントが科学的認識を「現象」に限定するのはここにおいてである。ヒュームに対して、彼は次のように応答する。ヒュームは感覚を確実だと考える一方で、数学を分析的判断と見なしており、経験科学にはそのような確実性がないと言う。しかし、カントによれば、われわれが感覚と呼んでいるのはすでに感性や悟性によって構成されたものでしかなく、また数学は綜合的判断である。要するに、カントは経験論者も合理論者も固執している確実な真理というものを放棄したのである。科学は「現象」であり、それで十分だ。科学的認識は綜合的判断=拡張的判断であって、つねに開かれたものである。逆にいうと、確実な認識などは何の価値もない。これが「カント的転回」である。”

 

“ 帰納的推論へのヒュームの懐疑とそれに対するカントの応答の今日的意味を明らかにしたのは、カール・ポパーである。ポパーは彼自身が属していた論理実証主義を非難して、科学的認識を保証するのは「検証可能性」ではなく「反証可能性」であると主張した。ポパーの考えでは、一般に実験的テストにかけられる科学的仮説は、「もし仮説Pが真であるならば、観察可能な出来事Qが生じる」という条件命題のかたちをとるが、その場合Qが観察されたからといって仮説Pが真になるわけではない。しかし、Qが観察されなかった場合は、仮説Pは斥けられる。したがって、科学的命題の真理性は、実験による検証によって得られるのではない。それはたんにその命題が偽であることを示す例を見つける(falsify)ことができないときに成立するが、その真理性は暫定的である。なぜなら将来いつ反証が成功するかも知れないからである。“

 

“ 現象ということによって、カントは科学的知識が暫定的真理であり、したがって拡張的(綜合的)であることを主張していたのである。”

 

柄谷行人 (1995), 「探求III (第九回)」『群像』50(1) , 271-273.