及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

「常識的道徳の悲劇」ー「モラル・トライブズ」読書メモ 1

ジョシュア・グリーンの「モラル・トライブズ」は、次のような寓話から始まる。

森の東の部族は、共同の牧草地において、どの家も同じ数の羊を飼育している。
森の西の部族は、共同の牧草地において、家族の人数に応じて所有できる羊の数が決まる。
森の北の部族は、共同の牧草地はなく、どの家も自分の土地を所有していて、家々の土地の広さや生産性にばらつきがある。
森の南の部族は、共同の牧草地において、羊も共同で所有している。

いずれも部族においても、それぞれ異なる課題はあるものの、それぞれの部族の人々は「うまくいっている」と感じている。

あるとき、山火事で森が燃えたことがきっかけで、新たな牧草地が出現した。
近隣の部族たちはその土地をどう扱ったら良いかをめぐって争いが始まった。
森の南の部族は、新たな牧草地は全ての人々のものであり、共同で開発しなければならないと主張し、そのための新たな議会の結成を提案し、他の部族にも代表を送るよう提案した。
森の北の部族は、この提案をあざ笑い、森の南の部族が議会の結成を準備している間に、家を建て、石壁を築き、草地に羊を放った。
森の東と森の西の部族は、中には議会に代表を送った家もあったが、森の北の部族よりも控えめながらも、同じように自分たちの羊を飼い始めた。

あるとき、森の南の部族の羊が一頭、森の北の部族の牧草地に紛れ込んだ。森の北の部族はその羊を森の南の部族に返した。
それに続いて、森の南の部族の羊が一頭、再び森の北の牧草地に紛れ込んだ。森の北の部族は、今度は羊を返す手間賃を要求した。森の南の部族は支払いを拒否した。
それに対して、森の北の部族はその一頭の羊を殺した。
それに対して、森の南の部族は、森の北の部族から羊を三頭奪って殺した。
それに対して、森の北の部族は、森の南の部族から羊を十頭奪って殺した。
それに対して、森の南の部族は、森の北の部族の家を焼いた。その結果、森の北の部族の子供がひとり死んだ。
それに対して、森の北の部族は、大挙して森の南の部族の集会所に詰めかけ火をかけた。その結果、森の南の部族の数十人が犠牲になり、その多くが子供だった。
森の南の部族と森の北の部族は、それぞれ復讐を果たそうと、互いの村を行ったり来たりして緑の丘を血で染めた。

ここで争っている部族どうしは、多くの点でよく似ている。
どの部族の人々も、自分自身のためだけでなく、家族のため、友人のため、同じ部族の仲間のために戦う。戦うことに誇りを持ち、すごすご引き下がれば恥いることになる。自分の評判を命がけで守り、他者を行いで評価し、意見の交換を楽しむ。
どの部族であれ、完全に利己的であることは許されず、どの部族であれ、完全に無私であることが期待されることもない。
どの部族であれ、一般の人々が嘘をついたり、盗んだり、勝手に互いを傷つけたりすることは許されない。

これらの部族は、それぞれの流儀で道徳的である。にもかかわらず、しばしば流血を伴う激しい衝突を起こす。それは、これらの部族が根っから利己的だからではなく、道徳的な社会がいかにあるべきかという考えが相容れないためだ。

それぞれの部族の道徳は日常生活に染み込んでいる。部族にはそれぞれの道徳上の常識がある。新たな牧草地の部族どうしが争うのは不道徳だからではない。新たな牧草地での生活を、まったく異なる道徳的観点からとらえているからなのだ。

これが、ジョシュア・グリーンが「常識的道徳の悲劇」と名づけた問題である。
今日の私たちが直面する様々な問題、例えばマクロでは構造が変質しながらも解決しない国際紛争においても、ミクロでは「デジタル・トランスフォーメーション」をめぐる社内の対立においても、実は「常識的道徳の悲劇」が見受けられるのではないだろうか。
どちらの側も、道徳的であろうとすればするほど、対立は深まっていく一方で、問題の解決は見えない。

この問題をどのように解決するか?
これが、ジョシュア・グリーンの「モラル・トライブズ」の起点となる問いである。

そして、ジョシュア・グリーンは、その解決策を、伝統的な哲学とはかなり異質のアプローチにより、意外なものに注目する。
それは、行動経済学において始まり、最近のマーケティングにおいても注目されている「二重過程理論」である。

(続く)

ミンツバーグ の「戦略クラフティング」を改めて読む

昨晩、私が教えているビジネススクールの修了生・在校生が参加している勉強会のメンバーから、「戦略立案の現場において、実際のところ、どれくらいMECEなファクトベースの分析が使われているのですか。どんなプロセスで戦略は立案されるものなのですか」という質問をいただいた。
質問の背後に、「ビジネススクールを修了した後に実務で、学んだ知識が使いこなせていないのではないか」という焦りのようなトーンを少し感じた。

その質問に対して、私は以下のように思いついたことをコメントした。

「分析は確かに使うんだけれども、ファクトから論理をリニアに積み上げたら戦略が生まれるという感じではないんですよね。」

「定量的なデータも使うけれども、それとともに顧客の生の声といった定性のデータが重要ですよね。データをヒントにしながら洞察やアイディアの仮説をつくり。その仮説からさらに別のデータが気になり、そのデータをヒントに別の洞察やアイディアの仮説が出てきて、といった、行ったり来たりで、あっちこっちにジャンプする探索的な感じですよね。探索していきながら、徐々にいくつかの洞察やアイディアに思考が収斂させていく感じですかね。」

「そして、小さくトライしてみたときの意外な反応や失敗に、しばしば重要なヒントがあるんですよね。例えば…」

「作った戦略は、いわゆるロジカルシンキング的な説明が共有しやすいんだけれども、戦略を作るプロセスは、ロジカルシンキング的なものではなく、むしろミンツバーグがアナロジーで使った、陶芸家のクラフティングのような感じですかね。」

そんなきっかけで、久しぶりにHarvard Business Reviewの1987年7月-8月号で掲載された「戦略クラフティング」を再読した。
https://www.dhbr.net/articles/-/609

「だれかが戦略を計画立案(プランニング)している様子を想像してみよう。ほとんどの人が、論理的に考えているさまを思い浮かべるのではないか。例えば、オフィスで一人または数人の執行役員とそのスタッフたちが机を囲んで、行動の順序や進むべき方向について検討している姿である。そしてほかの人たちは、ここで決められた方向に従い、スケジュール通りに遂行することになる。

 その前提は、理性、合理的な統制、競合他社や市場に関するシステマティックな分析、自社の強みと弱みに関する分析、そしてこれらの分析に基づいた総合的な判断に従って、明快かつ具体的、そして網羅的な企業戦略を策定することにある。」

「次に、だれかが戦略を創作(クラフティング)している様子を想像してみよう。前とはまたく違ったイメージが浮かんでくるだろう。すなわち、工芸制作が機械生産と異なるように、戦略クラフティングも戦略プランニングとは異なる。

 工芸の世界は、長年の伝統技能、一心不乱な姿勢、ディテールへのこだわりによって、初めて完璧となる。戦略クラフティングについて我々の心に浮かんでくるイメージは、思考や理性ではなく、むしろ長い経験、素材への愛着、バランス感覚といったものである。形成していくプロセスと実行するプロセスとが学習を通じて融合し、独創的な戦略へと徐々に発展していく。」

 

戦略が生まれるプロセスを、私たちは、ともすれば前者のプランニングのイメージで捉えがちだが、実は後者のクラフティングのイメージで捉えた方が的確なのではないか、というミンツバーグの問題意識は、教科書的なMBA教育や戦略コンサルティングに対して思いっきりアンチテーゼを投げ込む形となり、発表された当時も、そして今でも、経営学者や経営戦略の立案に携わる方々の話題に上る論文だ。

 

以下、続けて「ミンツバーグがアナロジーで使った、陶芸家のクラフティングのような感じ」が伝わる箇所を備忘・共有のため引用する。

 

「陶芸家は作業場において、ろくろの上の粘土の塊を前に座る。むろんその心は粘土に向かっている。しかし同時に、自分が過去の経験と未来への展望との間に座していることを自覚している。過去にうまくいったケースといかなかったケースは忘れることはない。自分の作品、才能、顧客についてはもれなく承知している。ただし陶芸家である彼女は、これらについて分析するというよりも、むしろ感じ取っていると言えるだろう。

 この陶芸家の知識は暗黙のものといえよう。その手は粘土をいじっているが、これらの知識がその頭の中で飛び交っている。ろくろの上の作品がその形を現す際、おそらくはこれまでの作品の延長線上のものなのだろうが、時には従来の殻を破り、新たな方向を指し示すこともありうる。それでもなお、過去は厳然として存在しており、概して未来は過去を反映する。

 マネージャーが陶芸家であれば、戦略は粘土である。そして、自分のケイパビリティという過去と市場の可能性という未来の間に座っている。陶芸家と同じく、みずからが置かれた状況において、手持ちの経営資源に関する知識を活用することだろう。このプロセスこそ、私が主張する『戦略をクラフティングする』ことにほかならない。」

「いわゆる戦略プランニングは、その実体通りに理解すべきである。戦略を創造する行為ではなく、既存の戦略をプログラム化し、実施させる手段に過ぎないのだ。本質的にそれは、要素還元的な分析作業である。一方、戦略の創造は総合化である。したがって、戦略プランニングの場合、既存の戦略の化粧直しか、ライバルの戦略の模倣に終わる羽目になる。」

「もちろん、プランナーが戦略の創造にまったく貢献しないと申し上げているのではない。例えば、別の手段で、創造された戦略をプログラム化したり、客観的なデータをもれなく考慮するよう、戦略立案プロセスの最前線において適宜分析を加えたりする。また、他の人々を戦略的に思考することを後押しする。

 プランナーが現実に触れながら創造的に思考する人物である限り、戦略家たりうる。もちろん、形式的なプランニングの技法は無関係である。」

 「もしプランニングによって戦略を創造できると考えるマネージャーがいたならば、ビジネスの現場に関する知識に乏しいか、そのような知識を活用できるだけの創造性が欠けていると見て良いだろう。

 工芸家は、他人が見逃してしまうような事象を観察したり察知したりできるよう、鍛錬を重ねなければならない。戦略クラフティングにも同じことが要求される。すなわち、何か事が起こりかけた時には、それを鋭く感知し、最大限活用できるよう、多様な視点から観察できる能力を鍛えることである。」

「マンハッタン島の役員室であろうと、モントリオールの工房であろうと、戦略を管理するためのカギは、創発してくるパターンを認識し、それが形成されるのを促す能力である。

 マネージャーの職務は、特定の戦略をあらかじめ着想するのみならず、組織のそこかしこで形成されつつある戦略のパターンを認識し、適宜必要に応じて手をさしのべることである。ただし、庭に思いがけず生えてくる雑草のように組織内で創発されてくる戦略には、即座に抜き取ってしまうべきものもあるだろう。」

“プランナーが現実に触れながら創造的に思考する人物である限り、戦略家たりうる”とミンツバーグ さんに励ましていただいたので、私も戦略家たりうるよう頑張ろう、と改めて思った再読でした。

 

「膜=核=網」のモデルの整理

鈴木健氏が2013年に出版した「なめらかな社会とその敵」から、その鍵となる「膜=核=網」のモデルを整理するために、関連するテキストを再録します。

はじめに

「私的所有は、人類という種に固有の現象のように思われがちだ。だが、それは誤りである。私たちは、私的所有を生命の歴史の中に位置付けなければならない。そのことによって【網】的な世界から内部と外部を分離する【膜】と小自由度で大自由度を制御する【核】が、繰り返し生まれてくる描像がみえてくることだろう。」

 

【膜】について

「細胞膜の内側はひとつのシステムとして自律性を持ち、弱い意味での一人称性、主観性が立ち上がり始める。あらゆるプロセスが、膜を維持するという内的な目的のために手段となり、システムの反応は、その目的を達成するための認知プロセスになるからである。」

「細胞は、外部からリソースを取り込み、そこからエネルギーを得る。そして、不必要になった物質を外部に吐き出し、外部の不必要な物質が膜の内側に入らないようにして、複雑な代謝ネットワークを安全な膜の内部に閉じ込める。」

「外部から内部に取り込んだ物質や、内部のネットワークによってつくりだされた新しい化学物質は、膜に守られている。その膜は、あたかも細胞がそれらの物質を私的所有しているようにもみえる。」

 

 

【核】について

「まずは全体が大自由度のシステムである代謝ネットワークがあった。自由度とは、自由に変更できる変数の数のことで、大自由度なシステムとは、互いに変数が影響を与える複雑な系である。やがて、大自由度のダイナミックスをもつタンパク質が、DNAという小自由度のシステムから生成されるものとなり、2つの存在に分化することによって、DNAは制御するほうに、タンパク質は制御されるほうに住み分けられる。やがてDNAは、核という細胞内器官に取り込まれる。DNAと核は【制御】の生物学的起源である。」

「小自由度が大自由度を制御しているという見方は、制御が一方向的で、すっきりしたものがごちゃごちゃしたものを決めていると考えたがる人間の認知バイアスによる錯覚である。つまり、実際は全体としてしか理解できないものが、小自由度による大自由度の制御というみせかけの関係性が認知しやすいので、小自由度が制御の主体だと認識されてしまう。そう認識されることで、その権力がさらに強化される。」

 

単細胞の【膜】と【核】について

「細胞がもつ自己維持の仕組みは、必ずしも安定的なわけではない。だが、DNAが比較的安定していることによって、その情報を使って安定的な状態を再生できることが、ある程度保証されているのである。外部からの摂動によって細胞は常に壊れ続け、そして同時に修復され続けている。死につつ生きることによって生命は維持されている。」 

 

多細胞の【膜】と【核】について

「細胞分裂した複数の細胞が、新しい社会スタイルを身につけるようになる。役割分担をしながら共生する多細胞生物の誕生である。それまではひとつひとつの細胞が個体であったものが、細胞社会全体でひとつの個体となる。多細胞生物では、個体の外部から取り込んだリソースを内部の細胞の間で配分することになる。そのため、個体にっって害となるリソースや細胞を、細胞膜とは違ったレベルで排除する必要性が改めて生じる。自然免疫の誕生である。」


他者の制御について

「生物は、自らの身体だけではなく、リソースをもつ土地や空間に対しても境界を引きはじめ、そのなわばりに入った敵を排除するようになる。なわばりは【空間の所有感覚】の生物学的起源である。こうしてコミュニケーションがはじまると、他者の存在を制御できるという錯覚が次第に生まれてくる。」

「不確定な他者の振る舞いを理解するために、存在しないかもしれない他者の心を、あたかも存在するものとして推論する能力が生まれた。これが心の理論と呼ばれる能力である。」

「心の理論という能力を獲得することにより、人はうそがつけるようになった。うそをつくというのは、他者に誤った信念をうえつけることによって他者の振る舞いを制御しようという行為である。そして理解不能で制御不能な他者という存在を、あたかも理解可能で制御可能な存在としてみなすようになったのである。心の理論は、【他者の制御】の生物学的起源である。」 


自由意志について 

「不確実な振る舞いを理解できないのは、他者だけではない。自分の振る舞いもまた、自分自身にとって不確定で本質的には理解できない。およそ5万年ほど前、自分の振る舞いの原因を他者として推論する能力、すなわち自由意志と自己意識が生まれた。」 

 

【社会的な膜】について

「たくさんの人々が有限の土地に住んでいると、その土地やリソースをめぐり争いをするようになる。また、異なる集落や民族の間でなわばり争いが行われるようになり、国境が生まれる。国境は【社会的な膜】の生物学的起源である。」

 

【社会的な制御】について

「やがて人々はひとりの人物に権力を委ねることになった。王の誕生である。王という小自由度の権力を制御することによって、複雑で大自由度の社会全体を制御できるようになった。権力は化学反応ネットワークのように複雑なネットワークであり、王はDNAのように世界に単純さをもたらす。ちょうどDNAが生命を制御しているのが錯覚で、実際には複雑な化学反応ネットワークの小自由度を統括する焦点でしかないのと同様に、王は社会を制御しているわけではなく、王を通して社会が制御されているのである。権力はどこかに座があるわけではなく、ネットワークとして創発する性質にすぎない。王は、【社会的な制御】の生物学的起源である。」

 

【近代国家のメンバーシップ】について

「300年ほど前、ホッブスやルソー、ロックらの近代思想家が、社会契約という概念を発明した。社会のひとりひとりの構成員が相互に契約を無視美、社会を構成するという考え方である。社会契約が重要なのは、社会の構成員のメンバーシップが明確になったことである。社会契約論が前提となる社会では、契約主体である個々人が国家に明確に所属することになる。これが【近代国家のメンバーシップ】の生物学的な起源である。引き換えに、人々は国家を所有する感覚をもつことができるようにもなった。」

「また、近代資本主義は、個人の私的所有を認めたうえで、その相互契約関係から財産の帰属を決定することを促した。しかし資本主義は近代国家を背景として発達し、結局のところそうした財産は国家という枠組みによって守られているに過ぎない。近代資本主義と近代国家は、相互に依存しながら進展していくことになる。」

 

【網】について

「こうして生命史を概観すると、内部と外部を分離する【膜】と、小自由度で大自由度を制御する【核】が、繰り返し登場していることがわかる。最初は細胞レベルで、そして多細胞レベル、他者レベル、社会レベルと、この構造は反復的に起きている。」

「だが、こうした膜と核を生み出すのは背景にある複雑な反応ネットワークである。この複雑な反応ネットワークを【網】と呼ぼう。」

「網こそがこの世界の本姓であって、膜や核は仮の姿としてあるいは一時的な現象として生まれてくる。膜は網の中の一部分が切り取られた自己維持システムであり、核は網の中から全体に影響を与える小さな部分が生まれることによって生じる。だが、一旦膜や核が生まれた後に、その本性が網であることを知覚するのは難しい。」

「膜は資源をある空間に溜め込み、核はある空間内部の資源を制御することを可能にする。本書が試みようとしているのは、この膜をなめらかにし、溜め込む機能を弱くすることである。世界があくまでも代謝ネットワーク(網)であることを思い出し、越境する力強い流れを生み出すことである。」

デジタル 情報技術が事業環境にもたらす変化を再考する

今から10年ほど前、まだ「デジタル ・トランスフォーメーション」という言葉が人口に膾炙する前に、デジタル 情報技術が事業環境にもたらす変化について整理しようとしていて、それを「マーケティング・ジャーナル」で発表し、その内容をもとに、講演などで紹介していたことがありました。

当時の「マーケティング・ジャーナル」の論文はこちらに公開されています。

当時の講演の資料は、2012年1月20日に「嶋口・内田研究会」で講演の機会をいただいた際に使ったものが私の手元に残っておりました。そのときに使ったスライド3枚を再掲します。
最初のスライドは、Paul Baranが提案した分散型のネットワークを説明したもの。当時一般的だった中央集権型のネットワークを「ツリー型」、Baranが提唱した分散型のネットワークを「リゾーム型」と位置付けています。

f:id:gilles-nao:20201108191514j:plain


続いて、ツリーとリゾームの説明。私が大学時代に愛読したテーマを、ここから突っ込んでいます(笑)。インターネットとして世の中に普及した分散型ネットワークと近いモデルで捉えられると話していたはずです。

f:id:gilles-nao:20201108191557j:plain


そして、デジタル情報技術がもたらした事業環境(この講演のときには、それをもう一歩踏み込んで、「デジタル ・プラットフォーム時代のコミュニケーション環境」と呼んでいますが)において、企業と個人の間、同一企業内の社員の間、そして、異なる企業の間で、コミュニケーションの仕方が、ツリー型からリゾーム型に移行するというフレームワークを提示しています。

f:id:gilles-nao:20201108191649j:plain

このスライドの後に、これらのツリー型からリゾーム型への移行の予兆となる事象や経営学で登場した概念をひとつひとつ解きほぐして説明するスライドが23枚続き、さらに当時私が研究していた、顧客と企業の間のインタラクションのメカニズムに関する実証研究の紹介するという構成でした。いや〜懐かしい。 さて、この「デジタル ・プラットフォーム時代のコミュニケーション環境」のフレームワークですが、その後10年を経た今日の視点で眺めると、以下のように感じます。

  • 企業=顧客のリゾーム化は、ソーシャル・メディアの普及により、この後の10年間でますます進んだ。顧客発の情報は大きな力を持つようになり、顧客が自らの興味・関心に合致した情報を顧客間で交換することにより、従来のデモグラフィックな要因とは異なる要因によってミクロセグメントを形成するようになり、企業はこのミクロセグメントに適合するように自社の商品開発やマーケティング・コミュニケーションを最適化し始めている

  • 企業内のリゾーム化は、従来の組織を横断するプロジェクトに権限を持たせて機動的に事業を推進する企業も出てきており、例えばSlackのようなチャットツールがそれを支援している。その一方で、企業活動においてコンプライアンスが求められるようになる中で、組織のガバナンスを強化すること(これ自体は経営的に正しいことなのだが)の副作用として、技術的にはリゾーム型のやりとりができても、組織のルールにおいてそれが円滑に進められず、組織が個々のユニットの中に閉じてしまう傾向も懸念される。 いわゆる「コロナ後」の事業環境において、Zoomなどオンライン会議ツールの普及が加速したが、これはツリー型にもリゾーム型にも使われうる

  •  企業=企業の関係のリゾーム化は確実に進んでいる。多くの従来型の企業は、それまで自社内に抱えてきた機能をアウトソースし始めていて、SaaS企業がそのアウトソースのニーズを取り込んで成長している。また、新たに台頭したD2C事業者は、コア・コンピタンスに資源をフォーカスし、その他の領域はイネーブラーとAPI連携しながらバリュー・デリバリー・システムを構築することによって、投入資源あたりの成長を加速させることに成功している


さらに、そもそもこのフレームワークに入っていなかった以下のような要素が、この10年間で前景化したとも感じます。

  • データ分析による最適化のパワーが、10年前に想像したよりもはるかに強力である。特に機械学習によってアルゴリズムを自動処理する(≒世の中の人々がイメージするAI)ことによって見出される最適化の機会を特定する数は人間が行なっていた分析に比べて圧倒的に多い。この圧倒的な数の最適化の機会を特定し、実装できる企業と、そうでない企業との間の差は、競争優位の大きな要因となっている

  • 顧客=生活者がリゾーム化して形成したミクロセグメントが、デジタル ・プラットフォームの最適化機能が進化することによって、いわゆる「フィルターバブル」(デジタル ・プラットフォームのアルゴリズムが、各ユーザーに適合しなさそうな情報をフィルターすることにより、ユーザーが見たい情報だけを見るようになること)をもたらし、それによってミクロセグメント間の分断が激しくなる。これは、デジタル情報技術を使いこなすようになった企業にとって短期的には問題ではないだろうが、社会的には、合意形成などにおいて深刻な問題となりつつあり、これが進むと、そもそも経済活動の前提となる安定した社会構造が保てなくなる可能性がある

前者については、私自身がこのフレームワークをつくった後で、実務において携わる中で肌で感じた、機械学習を活用した予測分析の可能性を、もっと多くの実務に携わる方々に気づいていただけるよう、私も大学の授業などにおいて取り上げていきたいと考えています。

後者については、たとえばスマートニュースの「ポリティカルバランシングアルゴリズム」のような、アルゴリズムを設定する人間側の課題設定そのもののクリエイティビティが求められるでしょう。

さて、このアルゴリズムのクリエイティビティの源泉となるものは何か?

鈴木健氏が2013年に出版した「なめらかな社会とその敵」の中に、次のような一節があります。

 認知コストや対策コストの問題から、私たちは複雑な世界を複雑なまま観ることができず、国境や責任や自由意志を生み出してしまう。逆にいえば、認知能力や対策能力が脳の進化や技術の進化によって上がるにしたがって、単純化の必要性は薄れ、少しずつ世界を複雑なまま扱うことができるようになってくる。人類の文明の歴史とは、いわばそうした複雑化の歴史である。
 インターネットやコンピュータの登場は、この認知能力や対策能力を桁違いに増大させる生命史的な機会を提供している。これらの情報技術を使って、この複雑な世界を複雑なまま生きることができるような社会をデザインし、その具体的手法をいくつかを提案することが本書の目的である。
〔鈴木健 (2013), 『なめらかな社会とその敵』 勁草書房。〕

 
デジタル 情報技術が事業環境にもたらす変化を正しく活用するためには、短期的な最適化に止まらない視点が必要となるでしょう。その視点のヒントは、経営学以外のところにあるように感じます。

内製とアウトソースに関する先行研究の整理 (draft1)

はじめに
Kotler and Stigliano (2018)は、「リテール4.0」において、小売業の今日的なあり方を「デジタル技術を活用した『人間対人間』の取引」と論じ、その特徴として、伝統的な仲介を迂回し、コンテンツや商品を直接顧客に提供し、オンラインで取引を完結することと、ソーシャル・メディアを通じて顧客と対話することを挙げている。
このような「リテール4.0」の典型的なビジネスの一つが、2000年代後半に米国で登場し、世界各国に広がっている「D2C」であろう。
Leimstoll and Wölfle (2020)は、D2Cの基本機能となる直接販売(direct sales)を「(ブランドのメーカーによって)垂直統合された流通チャネルによって実現される販売」と定義している。ブランドのメーカーが自らオンラインや店舗で販売する点では、アパレル業界において、それまで卸や小売に支払っていたコストを削減することで提供する価格を抑制し、顧客が知覚する価値を高めようとしたSPA(製造小売業)と同じものに見える。
しかしながら、D2Cには、SPAと異なる特徴もある。その代表的なものは、「リテール4.0」で語られているソーシャル・メディアを通じた顧客との対話を重んじる点がまず挙げられるが、それとともに、Leimstoll and Wölfle (2020)は、決済や輸送、広告など支援機能(supporting functions)は、第三者のサービス提供者にアウトソーシングするという点を挙げている。
尾原 (2020)は、D2Cのプレイヤーにおいて、「イネーブラー(enabler)」と呼ばれるサービス提供者の役割の重要性を指摘している。例えば、支払関係の苦労を解放するキャッシュレスサービス提供者のようなイネーブラーが登場することにより、「自分の好きなことが商売になったらいいな」という個人の思いをかなえ、従来なら「こんなのは商売にならない」とあきらめていたような小さなことでも、ビジネスとして成り立つ可能性を広げ、個人を人間らしい活動に集中させることを可能にしたことを例示している。
D2Cのビジネスにおいて、経営者・ブランドクリエイターの「個人の思い」=ブランドが解決したい社会課題やヴィジョンとミッション、そこに至った個人のストーリーが核となり、その「個人の思い」を顧客とソーシャル・メディアなどを介して直接的に会話し、その実現のための製品・サービスの改善を短いサイクルで展開する「人間らしい活動」が核となる活動だとするならば、イネーブラーの登場によって、そのような活動に時間を割いて事業を展開することを可能になったといえよう。
しかしながら、それならば、何でもかんでもイネーブラーにアウトソースすれば良いのだろうか?おそらくそんなに単純な話ではない。なので、D2Cの経営者は、何を内製化し、何をアウトソースするかについて判断が求められる。
また、D2C以外に、従来型の事業を展開する企業においても、いわゆる「デジタル・トランスフォーメーション」と呼ばれる、デジタル情報技術がもたらしが事業環境において、自らの事業を再定義しようという取り組みの中で、例えば「プラットフォーム企業Xと組むべきか、それとも組まないべきか」といった問いが延々と議論がされているという。この問いも、その本質は、新たなタイプの取引先が登場する中で、「何を内製化し、何をアウトソースするか」という判断であると言えよう。
そこで、この判断の参考となる示唆を探るために、何を内製化し、何をアウトソースするかについて、これまで経済学や経営学で論じられてきた概念をいくつか見てみよう。
先行研究の全体像
実務においては、図1の左側のような意見が、「内製すべき」という議論においてしばしば語られているのではないだろうか? それぞれの議論に対応した、経済学・経営学の代表的な先行研究を右に挙げた。

f:id:gilles-nao:20201102193535j:plain

図1
以後、それぞれの概念を見ていこう。
分 業
内製すべきか、アウトソースすべきかの議論に入る前に、その前提となる「分業」の議論を整理したい。経済学者のアダム・スミスは、当時の衣服の縫製において使われたピンの製造プロセスに着目し、皆が同じ仕事をするよりも、異なる仕事ごとに分業する方が生産性が向上することを指摘した(図2)。

f:id:gilles-nao:20201102193601j:plain

図2
垂直統合と水平分離
この分業の形態は、その後、主として、自社内で分業する垂直統合と、企業間で分業する水平分業の二つのアプローチによって追求されてきた(図3)。

f:id:gilles-nao:20201102193619j:plain

図3
経験曲線
垂直統合すべきか、水平分業すべきかを検討するかを検討する際の主要な論点の一つは、どちらにおいてより低いコストを実現できるかである。その論点に対して、経験曲線(図4)は、どちらにおいてより累積生産量を増やすことができるかによって指針を示すことができる。もしその業務に対して、内製して自社の社員が経験を重ねる機会よりも、アウトソースして社外の社員が経験を重ねる機会が多いならば、アウトソースする方が低いコストで同一の業務をこなせることになる。

f:id:gilles-nao:20201102193644j:plain

図4
取引コスト
この経験曲線に基づくコストの観点とともに、そこでは見えない「取引コスト」も考慮に入れる必要がある(図5)。内製化することによって取引コストを抑えることができるが、それによって、先に登場した経験曲線を効かせたプレイヤーが市場原理の中で価格を抑えることなどによるベネフィット(組織化コスト)を失うことになる。どちらのコストが高いかによって、内製とアウトソースの線引きができる。

f:id:gilles-nao:20201102193702j:plain

図5
何を内製化し、何をアウトソースするかについて検討する際には、これまで登場してきたコストの観点からの検討以外に、「コア・コンピタンス」「知識経営」そして「ホールドアップ問題」も実務に示唆があるだろう。
コア・コンピタンス
あらゆるプロセスを垂直統合(内製化)するのではなく、自社の競争優位の源泉となるスキル(コア・コンピタンス)を磨き込むことを重視すべきという議論(図6)は、コア・コンピタンスと関連性が高い領域は内製することが合理的な場合があるが、それ以外は内製にこだわる必要がないことを示している。

f:id:gilles-nao:20201102193718j:plain

図6
知識ベースの企業理論
外部の知識を得るために社外のリソースを積極的に活用しようという考え方が「知識ベースの企業理論」に登場する(図7)。知識の獲得と利用とを分けて考えると、複数の専門化された知識を組み合わせて利用するスキルを内製化すれば、個々の専門化された知識は、必ずしも内製化する必要がなく、効率的に知識を得られる方法を採れば良いことになる。

f:id:gilles-nao:20201102193905j:plain

図7
ホールドアップ問題
アウトソースする際に、取引先が機会主義的で、契約において不測事態の予見が困難で、取引が複雑で、自社で内製すべきスキルが取引先に蓄積される場合には、相手にその取引先に譲歩して非効率を受け入れざるを得ないような状況(ホールドアップ問題)になる可能性があるので、特定の取引先と長期契約を締結することには慎重になった方が良さそうだ(図8)。

f:id:gilles-nao:20201102193952j:plain

図8
以上が、何を内製化し、何をアウトソースするかについて考える場合に参考になりそうな経済学・経済学の概念である。 みなさんの意思決定の参考になりましたら幸いです。

資 料
Coase, Ronald H. (1988) The Firm, the Market and the Law, University of Chicago Press. (宮沢健一・後藤晃・藤垣芳文訳 『企業・市場・法』, 東洋経済出版社,1992年)
Henderson, Bruce D. (1973) “The Experience Curve,” Perspectives, The Boston Consulting Group.
Klein, Benjamin (1988) “Vertical Integration as Organizational Ownership,” Journal of Law, Economics, and Organization, 4 (1), 199-213.
Kotler, Philip and Giuseppe Stigliano (2018) RETAIL 4.0, Mondadori Electa S.p.A., Milano (高沢亜沙砂代訳 『コトラーのリテール4.0』, 朝日新聞出版, 2020年)
Leimstoll, Uwe and Ralf Wölfle (2020) Direct to Consumer (D2C) E-Commerce, In: Dornberger R. (eds) New Trends in Business Information Systems and Technology. Studies in Systems, Decision and Control, vol 294.
Prahalad, C.K. and Gary Hamel (1990) “The core competence of the corporation, Harvard Business Review, 68, 79-91.
Smith, A. (1776) An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, Oxford. (高哲男訳 『国富論』I, 講談社, 2020年)
入山章栄 (2019) 『世界標準の経営理論』, ダイヤモンド社.
尾原和啓 (2020) 『ネットビジネス進化論』, NHK出版.
関口和代 (2015) 「アウトソーシングと下請制度」『東京経大学会誌』 278号 199-218ページ。
武石彰 (2003) 『分業と競争:競争優位のアウトソーシング・マネジンメント』 有斐閣.
中島巌 (2013) 「不確実性下における学習曲線と生産決定」『専修経済学論集』 48巻 71-94ページ。

(2020年10月21日にFacebookに投稿したテキストを再掲)

「ブランドの代替わり」と「リキッド消費」

Belk (1988)は、近代的な生活において人々が「何を所有するか」によって自らのアイデンティティ(自分らしさ)を定義・強化する消費行動を指摘している。人々は幼少期から特定のイメージを持つブランドの中から「自分らしいもの」を選び、所有することに自らを環境から弁別し、自らを他者と差別化する。さらに、特定のイメージを持つブランドの中から新たな「自分らしさ」を表現するものを所有することによって、自らがコントロールできると感じる領域を拡張(self-extension)していくことを欲求する。

このような消費行動は、「自分らしさ」に適合したブランドを選択するとともに、適合しないブランドを回避する行動ももたらす。

Lee et al. (2009)は、人々がブランドを回避する行動を採る理由として、そのブランドの商品の性能が不十分だったり、修理に余計な手間がかかったりといった期待外れの経験による経験的な回避(experiential avoidance)、そのブランドが支配的な地位に甘んじていたり社会的に無責任な行動を採ったりといった評価による道徳的な回避(moral avoidance)、そのブランドの商品が費用対効果に合っていなかったり、パッケージが美的にきれいに仕上がっていないといった不十分さによる欠陥的な価値 (deficit avoidance)とともに、アイデンティティ的な回避(identity avoidance)を挙げている。 アイデンティティ的な回避の例として、そのブランドが自分らしい人々とは異なる利用者のグループを想起させたり、自らに対するイメージと合致していなかったりすることとともに、「ある種の消費者は、メインストリームのブランドを使うことは、自らのアイデンティティの独自性に反するので、そういったブランドを回避する」傾向などが挙げられている。

ブランドは、自らのアイデンティティを定義・強化するために消費される。そのような中で、強いイメージを持つブランドは、ときには利用され、ときには回避される。 このようなメカニズムは、マーケティングの現場においても昔から発見されており、指摘されていた。例えば藤岡(1984 )には次のように述べている。

「有名ブランドというのが品質の高さの証明ならまだしも、それが大量の商品の証明であれば、人はこれからだんだん遠ざかっていく。高価の証明、センスの証明であってもその魅力は薄れていく。嘗ては、ミス・ブランド、ミスター・ブランドという人種が街に溢れていて、これ見よがしにスカーフをなびかせ、これ見よがしにライターを取り出していたが、今はもう全く流行らなくなった」

「では、どんなセンスが恰好いいとされるのか。まず、ブランド・マークもろ出しはだめ、デザインもありありはだめ、だけど結構しゃれている。『素敵ね』と聞かれたところで、『これは吉祥寺のどこどこで見つけたのよ』と出所を明らかにする。それがもし海外ブランドだったら、誰もが知っているのではないブランド、だけど、できたらイタリーとかミラノとかがはいっていればそれに越したことはない、と、ある女性は説明してくれた。この心理の微妙、解説もなかなか困難だが、一点に絞って採り上げるなら、やはり、『私のセンスを見てください』ということになってしまう。有名海外ブランドは、どうしても『私の』センスよりメーカーのセンスが表に立つ」

「自分らしいもの」をコントロールし、特定のブランドによってコントロールされないように注意深くポジショニングしながら、アイデンティティを定義し続ける消費行動によって、かつて強いイメージを持ち、それゆえメインストリームになるまで人気となったブランドのが、しばしば、メインストリームであったり、大量に消費されていたりしたがゆえに回避され、その結果、ある世代に愛されたブランドが、その次の世代には回避される「ブランドの代替わり」という現象が、様々なカテゴリーで観察される。

らに、このような「ブランドの代替わり」に加えて、そもそも人々のアイデンティティのあり方とブランドの消費行動が、最近変質しているのではないか、という指摘もある。Bardhi & Eckhardt (2017)は、後期近代において、私たちの社会がより変化が激しくなり、より不安定になる「リキッド・モダニティ(液状化する社会)」に移行し、デジタルな情報環境(例: デジタルコンテンツに簡単にかつ瞬間的にアクセスできる環境)により、ある一貫したアイデンティティ一に対するこだわりがより少なくなり、ブランドの消費において短命化、非所有化、脱物質化が強くなる「リキッド消費(液状化消費)」が台頭してきたことが指摘されている。久保田(2020)は、この「リキッド消費」が日本においても見られることを実証している。
これまでメインストリームの地位にあったブランドに対して、昔からあった「ブランドの代替わり」を狙ったチャレンジというアプローチに加え、社会的な変化とデジタルな情報環境がもたらした「リキッド消費」が進む環境を効果的に活用したアプローチを組み合わせて、 新しいタイプのブランド群が成長している。そのようなブランド群のひとつが「D2C」ではないだろうかと感じている。D2Cについては別の機会で整理したい。
(資料)
Belk, Russel W. (1988) “Possessions and the Extended Self,” Journal of Consumer Research, 15 (2), 139–68.

Lee, M.S.W., Conroy, D.M. and Motion, J. (2009), “Brand avoidance: a negative promises perspective”, Advances in Consumer Research, Vol. 36, 421-429.

藤岡和賀夫 (1984) 「さよなら、大衆―感性時代をどう読むか」PHP研究所

Bardhi, F., & Eckhardt, G. M. (2017). Liquid consumption. Journal of Consumer Research, 44(3), 582–597.

久保田進彦(2020) 「消費環境の変化とリキッド消費の広がり―デジタル社会におけるブランド戦略 にむけた基盤的検討―」『マーケティングジャーナル』39(3), 52–66.

(2020年9月27日にFacebookに投稿したテキストを再掲)

商品の価値とは何か

一昨日のゼミで話題になった「商品の価値とは何か?」 という問いに対して、関連する議論を少し整理した。
1) 商品の価値は生産者側で決まるのか、それとも消費者側で決まるのか
経済学において、商品の価値は、アダム・スミスやデヴィッド・リカードら「古典派」はその商品の生産に要した労働力によって決定されると考え、ウィリアム・S・ジェボンズ、レオン・ワレラス、カール・メンガーらは、その商品を使用する消費者が感じる効用によって決定されると考えた。
スミスは、「国富論」の中で、分業が徹底することにより、私たちの生活の必需品や便宜品、娯楽品のうち、私たちが自給自足できるものがごく一部となり、それらの大部分を他人の労働によって引き出すようになるという状況を前提に、商品の価値について以下のように述べている。
「あらゆる商品の価値は、自ら使用したり消費したりするのではなく、もっぱら他の商品と交換するために所有している人にとっては、それが彼に購買または支配を可能にする労働量に等しいことになる。それゆえ、労働があらゆる商品の交換価値の本当の尺度なのである」(Smith 1776)
「あらゆるものの真実価格、つまり、どんなものであれその入手を望む人が実際に要する費用は、それを獲得する苦労と労力である。あらゆるものが、それを獲得したうえで、処分するなり、他の何かと交換しようとする人にとって実際に持つ価値とは、それを所有するがゆえに自身は手を下さずに済み、他人に負わせることができる苦労と手数である」(Smith 1776)
これが、後にリカードらによって「労働価値説」として整理される、「商品の価値はその生産に必要な労働力によって決定される」という考え方である(武隈他 2005)。
これに対して、イギリスではジェボンズ、ヨーロッパ大陸ではワルラス、メンガーがそれぞれ独自に展開したのが、「価値効用説」、すなわち、「商品の価値は個人がそれを使用あるいは消費することによって得られる満足、すなわち効用によって決定される」 という考え方である(武隈他 2005)。例えばジェボンズは兄への手紙の中で次のように述べている。
“One of the most important axioms is, that as the quantity of any commodity, for instance, plain food, which a man has to consume, increases, so the utility or benefit derived from the last portion used decreases in degree. The decrease of enjoyment between the beginning and end of a meal may be taken as an example. And I assume that on an average, the ratio of utility is some continuous mathematical function of the quantity of commodity.” (Jevons 1860)
「最も重要な公理の一つは、次のようなものである。すなわち、何らかの商品、例えば人間が消費しなければならないふだんの食糧の数量が増加するにつれて、最後に使用された部分から得られる効用または便益はその度合が減少するということである。食事の最初と最後のあいだの満足の減少をこの一例にとることができるだろう。そして私は、平均して、効用比率は商品の数量のある数学的な連続関数であると仮定する」(根井 2018)
この連続関数を具現化させたのが、アルフレッド・マーシャルの需要曲線である。例えば図1-1は、消費者が商品に感じる効用が、消費する量が増えるとともに小さくなる法則を示している。例えば商品がパンだとすると、消費者が空腹であるときには価値を高く感じるので1つ目のパンに200円払っても良いと思うが、2つ目には150円、3つ目には110円、4つ目には80円、5つ目には60円、6つ目には50円以上払いたくないと考えるように、商品に感じる価値が小さくなっていく。

f:id:gilles-nao:20201102194249j:plain

この議論は、今日的な経営に置き換えれば、生産にかかったコスト(例: 労働の対価や設備の減価償却)の積み上げで価格を決めるか、それとも、消費者側が知覚する価値に見合った価格で決まるのか、というものに近いのではないだろうか。
そして、今日の経営においては、例えば Forbis and Mehta (1979)の“Economic Value to Customer”のように、後者がより重視されているといえよう。

2) 商品の価値は合理的に決まるのか、それともそうではないのか
「労働価値説」=古典派、「効用価値説」=新古典派の中で、カール・マルクスは経済学の教科書などにおいては前者に分類されていることが一般的だが、実は独特のポジションを取っている。
例えば、次の部分では、使用価値≒消費者側が知覚する価値に注目しているように見える。
「商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。これらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑 から出てこようと創造によるものであろうと、ことの本質を少しも変化させない。(中略)一つの物の有用性〔すなわち、いかなる種類かの人間の欲望を充足させる物の属性〕は、この物を使用価値にする」(Marx 1867)
ところが、それに続く部分において、使用価値が目的としての性格だけでなく、富の素材的内容や交換価値の素材の担い手といった手段としての性格も持つことを指摘している。
「しかしながら、この有用性は空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。(中略)使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に交換価値の素材的な担い手をなしている」(Marx 1867)
交換価値とは何か? マルクスは、あるカテゴリーの商品がもたらす使用価値と、別のカテゴリーの商品がもたらす使用価値との間の交換のレート的なものとして描いている。
「交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、すなわち、時と所とにしたがって、たえず変化する関係として、現われる。したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の 効属性を取得することが人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるのではない」(Marx 1867)
経済学において「労働価値説」の代表的な論者と分類されているマルクスは、この部分で「労働価値説」を否定している。しかし、その後で続くところでは、こうも述べている。
「使用価値としては、商品は、何よりもまず異なれる質のものである。交換価値としては、商品はただ量を異にするだけのものであって、したがって、一原子の使用価値をも含んでいない。いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである」(Marx 1867)
ここで一見「労働価値説」に逆戻りしたかのように見えるマルクスは、実は労働を次のように定義し直している。
「それはもはや指物労働の生産物でも、建築労働や紡織労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性質は消失する。したがって、これらの労働の異なった具体的な形態も消失する。それらはもはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される」(Marx 1867)
スミスが論じ、リカードが整理した「労働価値説」における「個々の商品を生産するための労働」は、ここから「ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働」という、異質の概念に置き換えられている。
「われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、妖怪のような同一の対象性以外に、すなわち、無差別な人間労働の、言いかえればその支出形態を考慮することのない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの以外に、労働生産物から何物も残っていない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累積されているということを表わしているだけである。これらの物は、お互いに共通な、この社会的実体の結晶として、価値ー商品価値である。商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われた」(Marx 1867)
そして、「抽象的に人間的な労働」において、より生産性が低く(=その商品を生産するのにより多くの労働の量が必要で)、多くの労働の量を投入することが求められる商品が価値を持つ例として、マルクスはダイヤモンドを挙げる。
「同一量の労働は、例えば豊年には八ブッシェルの小麦に表わされるが、凶年にはか四ブッシェルに表わされるにすぎない。同一量の労働は、富坑においては、貧坑におけるより多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは、地殻中にまれにしか現われない。したがって、その採取には、平均して多くの労働時間が必要とされる。そのためにダイヤモンドは、小さい体積の中に多くの労働を表している。(中略)もし少量の労働をもって、石炭がダイヤモンドに転化されうるようになれば、その価値は煉瓦以下に低下することになるだろう 」(Marx 1867)
そこから、マルクスは、商品を生産するための労働力が自己目的化し、商品と切り離せなくなっている「物神的な性格」に着目する。
「商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らの外に存する対象の社会的関係として、反映するということである。このQuidproquo〔とりちがえ〕によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである」(Marx 1867)
ここで、交換価値は、使用価値≒消費者側が知覚する価値に転換する。すなわち、社会から離れた一個人としての消費者がダイヤモンドに使用価値を見出しているのではなく、交換を行う社会的な消費者が、それが多くの労働時間が必要とされるという理由からダイヤモンドに交換価値を見出し、それゆえ、使用価値を見出している。この状況を、マルクスは「商品の物神的な性格」と呼んでいる。
マルクスの議論の面白さは、商品の価値を、商品と消費者の間で、生産に必要な労働力や消費者にとっての効用といった合理的なモデルで捉えるだけでなく、消費者間の交換の中で、労働力の投入量≒金銭的な価値が自己目的化する非合理的なメカニズムを解き明かしているところである。
「商品の物神的な性格」は、マルクスを援用したフリードリヒ・エンゲルスが作り上げた共産主義の方々の目指した世界とは全く逆の方向の話とつなげてしまい恐縮だが、マーケティングにおいては、Carroll and Ahuvia (2006)のBrand Love(ブランドへの愛着)に影響をもたらすSelf-Expressive Brand(自己表現的なブランド)という変数や、Wiedmann, Hennings and Siebels (2009)のLuxury Value(贅沢さの価値)に影響をもたらすSocial Value(社会的な価値)の議論に通じる視野を切り開いていると言えるのではないだろうか。
これらについては、次の機会でまとめることにしよう。
 
参考文献
Smith, Adam (1776) An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nation; 高哲男訳「国富論(上)」第5章 講談社)
武隈 慎一他(2005)「エコノミクス 入門ミクロ経済学」ダイヤモンド社
根井雅弘 (2018)「『英語原典で読む経済学史』第19回 限界革命(1) 2018.06.15」 https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/828
Marx, Karl H. (1867) DAS KAPITAL I; 向坂逸郎訳マルクス「資本論」(一) 岩波書店 2017年
Carroll, Barbara A. and Aaron C. Ahuvia (2006) “Some antecedents and outcomes of brand love,” Market Letters (2006) 17: 79–89.
Wiedmann,Klaus Peter, Nadine Hennigs and Astrid Siebels (2009) “Value-Based Segmentation of Luxury Consumption Behavior,” Psychology & Marketing, Vol. 26(7): 625–651.

(2020年6月14日にFacebookに投稿したテキストを再掲)