及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

「国民投票」の危険性

 旅行中の機内で、Kindleに入っている本をなんとなく読み返していたら、少し前の柄谷行人が「国民投表」の危険性について書いている面白い文章を再発見したので、以下引用します。
 1997年に近畿大学と慶応大学で行った講演に加筆したものだそうです。
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 実は、全員が参加する「民会」のような形式ならば、現在でも可能です。というより、むしろ現在にいたってようやく技術的に可能になったといえるでしょう。すなわち、電子的な投票システムです。
 国民投票は、それによって簡単に実現してしまいます。そうすると、議会(代表性)は不要になるかもしれません。あらゆるケースにかんして、電子的国民投票によって決定することが可能になるからです。そして、それは民意を直接かつ真実に「代表」しているようにみえます。

 しかし、これは実は、大変危険なのです。そもそも、「民意」とは何でしょうか。一般の人々がもつ意見は、あらかじめ、政治家、官僚、マスメディアなどによってインプットされたもので、自発的といっても、たんに与えられた選択肢を選んでいるだけなのです。そして、現在のマスメディアによる世論調査が示すように、国民投票の結果はたえず浮動します。では、それをただちに忠実に反映すると、どういうことになるでしょうか。

 これを、個人を例にとって考えてみます。ひとが、夜に怒りに駆られて手紙を書いたとしても、翌朝、それを投函することはなく、多くの場合止めてしまいます。一夜明けて、冷静になるからです。しかし、e-mailであれば、すぐに送ってしまい、それに対して他人も直ちに激しく反応するから、あっという間に決裂し絶交するということになりがちです。  自分の気持ちに忠実であろうとするのはいい。しかし、その「自己」がいつも違ってしまう。したがって、自己に忠実であればあるほど、自己を裏切ることになってしまいます。

 電子的な国民投票は、そのような結果になる可能性があります。それはたえず浮動します。ところが、国民投票によって一度決定されたことは、簡単には否定できないのです。特に、それが外国との約束である場合、そうすれば、国家としての同一性は存在しなくなるからです。

 ところが、いったん決めたことが容易に変えられないとすると、意見を変えた投票者たちは、たえず今、自分たちの意見が代表されていないと感じるでしょう。

 つまり、人民を真に代表する装置として想定される国民投票は、必然的に、人民を裏切る結果に終わらざるを得ないのです。
(柄谷行人 2002年 「日本精神分析」 第三章 「入れ札と籤引き」)

(2016年7月2日にFacebookに投稿したテキストを再掲)