及川直彦のテキストのアーカイブ

及川直彦が書いたテキストと興味を持ったテキストのアーカイブ

論理実証主義と反証主義

少し前にカール・ポパーの『科学的発見の論理』を読んでいて、その中で、ポパーが確率論に基づく帰納法について長々と批判をしている部分など、いまいち文脈が理解できていない部分があったのですが、野家啓一の『科学哲学への招待』の第9章「論理実証主義と統一科学」、第10章「批判的合理主義と反証可能性」のあたりを読んだおかげで、ポパーは、論理実証主義の完成形である「仮説演繹法」の中の帰納法の部分に対して

  • 仮説を発見・提起する部分では、観察から帰納法的な手順を踏んで導かれる仮説って小粒なものばかりにならない?むしろ自在にジャンプした発想に基づく仮説の方が面白いのでは?
  • 仮説を正当化・立証する部分では、「検証可能性」にこだわって「有限個で証明された法則が過去・現在・未来のすべてで再現することが証明できない問題」という帰納法の矛盾を回避するために確率論を持ち込まないでも、「反証可能性」によって演繹法の論理学で問題が解けるのでは?

 

と主張していたことが理解できました。

 

以下、第9章「論理実証主義と統一科学」、第10章「批判的合理主義と反証可能性」の関連する部分についての備忘メモです。

 

論理実証主義

  • ウィーン大学の哲学教授M・シュリックを中心に、O・ノイラート、H・ライヘンバッハ、R・カルナップら哲学の革新を唱える自然科学者や哲学者たちが、「ウィーン学団」を立ち上げた
  • ノイラートとカルナップが中心となって起草した「科学的世界把握」と題された宣言文の中で、「科学の中にはいかなる深さも存在しない。いたるところが表面である。人間にとってはすべてが到達可能であり、人間こそが万物の尺度である。科学的世界把握はいかなる解決不可能な謎も知らない」と書かれているように、深遠さを説く従来の科学哲学に対して真正面から反旗を翻し、「論理実証主義 (logical positivism)」を提唱した
  • 論理実証主義の「実証」の側面は、あらゆる知識は感覚的経験によって確かめられなくてはならないというE・マッハの思想と、B・ラッセルやL・ヴィトゲンシュタインによって提起された論理分析の方法とを結びつけ、それを基に科学知識のあり方を解明しようと試みた。これが今日の科学哲学・科学基礎論の出発点である
  • ウィーン学団はまず、これまでの哲学が心理学と論理学とを明確に区別してこなかったことを批判した。例えばライヘンバッハは、科学研究における「発見 (discovery) の文脈」と「正当化 (justification) の文脈の明確に区別することを求めた
  • 仮説の発見は論理的なアルゴリズムに従ってなされるものではなく、むしろ研究者の心理状態や置かれている社会状況などに大きな影響を受けるものであるという考え方に基づき、ライヘンバッハは、「発見の文脈」は心理学や社会学に関する問題であり、論理学的・哲学的な問題には属さないとした。そして、科学哲学が関わる場面を「正当化の文脈」、つまり提起された仮説の正しさを論証する場面のみに限定されるべきであると主張した
  • さらに、心理学と論理学の混同の背景には、経験的根拠を欠く形而上学が控えていると主張し、「形而上学の除去 (elimination of metaphysics) 」というスローガンを掲げた
  • 論理実証主義は、一方では「科学認識論的基盤の確立」という科学の側からの要求に応えようとするもの (科学についての哲学 [philosophy of science])であったと同時に、科学の成果を無視した古色蒼然たる伝統的形而上学を否定しようという哲学内部の革新運動 (科学的哲学 [scientific philosophy])でもあった
  • 論理実証主義は、E・カントの「ア・プリオリな総合命題」は形而上学的な命題であり、われわれの認識から排除されねばならないと考え、有意味な命題は経験的手続きによって検証可能でなければならないというテーゼを提唱した。例えば「神は完全である」や「魂は不死である」といった形而上学の命題は、経験的な検証方法が不明であるため、無意味な命題として科学からは追放されることになる。つまり、有意味な科学的命題と無意味な形而上学的命題とを区別する基準を「検証可能性」の概念に求めた。これは「意味の検証可能性 (verifiability) テーゼ」と呼ばれる
  • しかしながら、この「検証可能性」という基準は、われわれが実験的に検証できるのは有限個の事例であるため、「すべてのSはPである」という無限個の事例を含む全称命題の形をした科学的法則を完全に検証することはできず、よって科学法則すら無意味な命題とされてしまうという困難があった
  • この困難を回避するために、ウィーン学団のリーダーであったカルナップは、検証という強すぎる概念を「確証 (confirmation)」という確率に言及する概念で置き換えることを試みた
  • ウィーン学団の論理実証主義において「意味の検証可能性テーゼ」と並んでもう一つ柱となるのは、すべての科学を一つの方法によって統一しようという「統一科学 (Einheitswissenschaft)」の考え方である
  • 自然科学と社会科学、さらには人文科学までをも一つの方法によって統一しようという統一科学理論の背後にあるのは、物理学の方法を基礎とした還元主義 (reductionism) の思想である。例えば、人間の集団である社会は個人間の関係の総和でしかないと考える(方法論的個人主義)ならば、人間の集団を扱う社会学の法則は個人の心理を扱う心理学の法則によって説明可能であることになる。こうして社会学はより基礎的な分野である心理学に還元され、さらに人間の心理状態が生理的状態によって規定されているとすれば、心理学の法則はより基礎的な生理学の法則に還元されることになる。このように遡っていけば、生理学は生物学へ、生物学は化学へ、化学は物理学へ、という形でその説明レベルをより基礎的な分野へと還元できるように思われる
  • ウィーン学団の中心メンバーであったC・G・ヘンペルは、一般法則と初期条件を「説明項」、個別的出来事を「非説明項」とし、初期条件Cを「原因」、個別的出来事を「結果」とし、それらの間を一般法則が媒介している科学的説明  (「被覆法則モデル [covering law model]」あるいは「演繹的-法則的説明 [deductive-nomological explanation]」) を定式化し、説明において、一般法則が果たす役割は、人文・社会学を問わず構造的に同じであり、およそ説明が「科学的」なものである限り、このモデルを満足させなければならないと主張した
  • 「統一科学」を普及させるために、ウィーン学団のメンバーたちは『統一科学百科全書』と言うタイトルの一連の著作シリーズの刊行を企画したが、自由主義者やユダヤ人の多かったウィーン学派は、1933年にヒットラーが政権を握るや、ナチスの弾圧によって活動の中断を余儀なくされ、主要なメンバーはアメリカに亡命せざるを得なかった。その後、シカゴ大学に職を得たカルナップらを中心として、「ウィーン=シカゴ学派」が再結成され、統一科学運動はアメリカにおいて再開された

 

反証主義

  • 「形而上学の除去」をスローガンにした論理実証主義者たちは、「検証可能性」という概念を旗印に伝統的な哲学の改革を大胆に押し進めようとした。すなわち、有意味な命題は経験的に検証可能でなければならないとして、検証可能性の有無を基準に、有意味な科学的命題と無意味な形而上学的命題を峻別しようとしたのである。K・ポパーは、このような論理実証主義の考え方を内在的に批判し、克服しようとした
  • 1934年にドイツ語で執筆した『探求の論理』を英訳し1959年に出版した『科学的発見の論理』において、ポパーは帰納法を否定し、検証に代わる反証 (falsification) という概念を提示した
  • 経験的データを収集すれば、そこから帰納法を通じて科学的法則が見出せるというF・ベーコン的な考え方をベースとして成立した仮説演繹法 (帰納法と演繹法の長所を取って組み立てられた方法論) の中の、観察によって収集されたデータから帰納法によって仮説を提起する部分に対して、そもそも何をどのように観察するかという一定の論理的な前提がない限り観察という行為は成立しないということから批判した。そして、科学は観察から始まるのではなく、むしろ探究されるべき問題や疑問から出発するものであるとし、純粋に演繹的な方法だけで科学的な探究のプロセスを捉えた。例えば、問題として未知の自然現象の説明を求められたとすると、われわれはその問題を解決するために暫定的な仮説を提起する。この仮説の提起が推測の段階であり、推測の段階では帰納法を必要としないばかりか、科学的な手続きである必要もない。神からの啓示であれ夢のお告げであれ、ともかく問題解決のための仮説が発想されることが重要である
  • ある仮説から導かれるテスト命題の正しさを実験的証拠に基づいて示すことにより、もとの仮説の正しさを証明する手続きである検証の論理構造は、
    (1a) 仮説Hが真であるならば、テスト命題Tは真である
    (2a) テスト命題Tは真である
    (3a) ゆえに、仮説Hは真である
    という推論である。この推論は、「H→T」と「T」という二つの前提から「Hという結論を導き出す「後件肯定の誤謬」の推論となっている(例:「ある図形が正三角形ならばそれは二等辺三角形である」「その図形は二等辺三角形である」故に「それは正三角形である」という推論)。よって、テスト命題の正しさを実験的証拠に基づいて立証しても、もとの仮説の正しさを立証されない。
    これに対し、「反証」とは、ある仮説から導かれたテスト命題が偽であることを実験的証拠を通じて示すことにより、もとの仮説の正しさを否定する、という手続きである。その論理構造は、
    (1b) 仮説Hが真であるならば、テスト命題Tは真である
    (2b) テスト命題Tは偽である
    (3b) ゆえに、仮説Hは偽である
    という推論である。この推論は、「H→T」と「-T」という二つの前提から「-H」という結論を引き出す「否定式 (modus tollens)」であり、これは健全な論証である。
    つまり、たった一つでも反例 (counter example) が見つかれば、もとの仮説の誤りを立証できる。これは「検証と反証の非対称性」と呼ばれている
  • 科学の本質は、推測によって大胆な仮説を提起し、その仮説をあらゆる科学的手段に訴えて反駁しようとする、この推測と反駁の繰り返しにある、というのがポパーの科学観であり、このような試行と誤謬排除 (trial and error elimination) のプロセスの中にこそ科学的方法の特徴がある、とポパーは考えた
  • さらにポパーは、科学と非科学との境界設定 (demarcation) を「反証可能性 (falsifiability)」によって試みる。反証可能性とは「当の仮説と矛盾する観察命題が論理的に可能であること」を意味するが、この度合いが高ければ高いほど、その仮説は「科学的」であり、逆に低ければ低いほど、その仮説は「非科学的」であると考えた。例えば、「明日は雨が降るか降らないかのいずれかである」という天気予報は誤りようのない予報であり、この予報と矛盾するような状況を考えにくい、すなわち反証可能性が低いが、これに対して、「明日の午前中は晴れるが、昼から雨になり、夕方には雪が降る」という天気予報は、例えば明日の午前中に雨が降ったり、夕方になっていても晴れていれば、明白に反証される、すなわち反証可能性が高い
  • ポパーの「反証可能性」による科学と非科学の境界設定の基準によれば、例えば、マルクスの経済理論やフロイトの精神分析理論のように、反例が示されても理論の誤りを認めず、反証を回避する戦略を採るような理論は、非科学的なものとみなされることとなり、アインシュタインの一般相対性理論のように、大胆な仮説を反証可能な仕方で提示する理論は高度に科学的なものと見なされる
  • 科学を科学たらしめているのは、反証可能性とそれを支える「批判的方法」であり、「批判的方法」が十分に機能するためには。その前提としてわれわれが「批判的理性」を持たなければならず、「批判的理性」が十分に機能するためには、自由に意見を戦わすことができる「開かれた社会」が存在しなければならない。ポパーは、この科学哲学と社会哲学を融合させた立場を、「批判的合理主義」と名づけている

 

資料: 野家啓一(2015)『科学哲学への招待』筑摩書房

統計学の科学哲学的な整理

大塚淳の『統計学を哲学する』が、統計学の代表的なアプローチである記述統計、推測統計、統計的因果推論について、科学哲学の文脈でわかりやすく整理していたので、以下要約しました。

 

観察されたデータを要約する記述統計

  • 記述統計は、標本平均や標本分散、標準偏差を比較したり、ヒストグラムやプロットによって視覚化したりすることにより、データを我々が理解できるような形で記述し、要約するための技術である
  • 科学的な言明は現実の経験や観測に基づかなければならないという実証主義(positivism)において、記述統計が活用される
  • 実証主義は、「神」とか「霊魂」とかいった非経験的な原理を科学から排除しただけでなく、科学自体の内部にあって一見科学的な装いをしているものの、それ自体は観測されないような概念を排除した
  • エルンスト・マッハのルートヴィッヒ・ボルツマン批判は後者の例の一つである。ボルツマンは「原子」や「力」といった(当時の科学技術では)観察不可能で、説明のために仮定されたものを使って現実を理解しようとしたが、マッハは、直接観察されないようなものを仮定することなく、観察されたデータのみに基づき、それを我々の理解できるような法則としてまとめること(「思考の経済」)が科学の唯一の目的であると考えた
  • エルンスト・マッハのこの考え方を引き継いだのが、カール・ピアソンである。なので、ピアソンの考え方は、よく言われているような「相関から因果は結論できない」ではなく、そもそも因果は直接観察されないものなので、そのようなものを考えるべきではないとする立場である
  • マッハやピアソンは、科学において「ある」と認められるのは客観的な仕方で観測されたデータとそこから導かれる概念だけであり、それ以外のものは人間の作り出した人工物に過ぎないとして排除する立場である
  • 実証主義の背景には、知識は確実な土台の上に築かれなければならないという認識論がある。マッハやピアソンの考え方は、デイヴィッド・ヒュームの「恒常的な連接」の考え方(例えばビリヤードでボールAがボールBに当たってボールBが動いたといった事象を、Aの後にBが続いて起こったことのみを記述し、AがBが動くことを引き起こしたといった直接観察できない「力」のようなものを想定しないという考え方)に通じるものである
  • 科学の土台を直接観察されたもののみに切り詰め、経験に還元されない概念を非科学的・形而上学的なものとして排除する「禁欲さ」によって確実性は得られたが、その代償として、帰納推論が不可能になってしまった
  • 例えば、「学期中の学食は混むから今日の昼も席が取れないだろう」といった日常的な予想や、「ある治験結果から薬の効能を判定する」といった科学的な推論のような、私たちが行う推論のほとんどが、未観測の事象はこれまで観測された事象と同じだろうという前提、すなわち、過去から未来を通じて自然は同じように動くという仮定(「自然の斉一性」)に基づいているが、この仮定は、実証主義に基づくと、過去のデータ=これまで得られた経験だけでなく、未観測の未来の経験がないと導くことができなくなる。そのような仮定は、ヒュームによると我々の「心の癖」であるとされる
  • この立場に基づくと、観察されたデータから現象をまとめて整理することはできるが、まだ観察されていない事象や観察できない事象を予測したり説明したりすることができなくなる

 

未来のデータを予測する推測統計

  • 推測統計は、データをその背後にある確率モデルから抽出されたサンプル(標本)として捉え直し、サンプル自体は毎回異なるものではあるが、そのもととなる確率モデル自体は同一性にとどまる(斉一的)と推定し、その推定された確率モデルを媒介して未来のデータを予測するものである
  • 我々が日常でよく使う確率という概念は、データ自体ではなく、その背後にあって、我々がそこからデータを取ってくる源として想定されるような世界に属する概念である。この「源としての世界」のことを「母集団」と呼ぶ
  • この標本空間において、そこで取りうる値に対して、それぞれの値であることの確率が存在し、その分布=確率分布が存在する。それぞれの値であることの確率が存在する変数を「確率変数」と呼ぶ
  • 確率分布を特徴づける値=確率モデルの例として、その「重心」を示す母平均(population mean)とバラツキを示す母分散(population variance)がある。これらは、データにおいて見られる平均や分散を、標本空間全体に広げて母平均や母分散で表現したものである
  • 観測されるデータは、確率モデルからの部分的な抽出(サンプリング)であるが、もしサンプリングが同じ「母集団」から行われ、かつ、ランダムに行われている(=同種の確率変数の中で、例えばある値と近いものが選ばれるといったことがなく、それぞれのデータが互いに独立に分布している)ならば、確率変数は独立同一分布(independent and identically distributed, 以後「IID」)である
  • ヒュームの「斉一性」と呼んだ、未観測な状況においても現在と同様な状況が成立することについて、推測統計は、その具体的な内実をIID条件として定式化している。すなわち、斉一性とは確率モデルがデータの観測過程を通して同一に留まり、データの観測が互いに影響を及ぼすことなくランダムになされるということである
  • IID条件という斉一性の条件を想定することにより、我々は、データの背後にある確率モデルについて帰納的推論を行うことができる。そのような推論の例が、大数の法則や中心極限定理などにより構成される大標本理論(large sample theory)である
  • 大数の法則は、データ数が増えれば増えるだけ観察された標本平均は母集団の新なる平均である母平均に近づくことを確率収束(convergence in probability)として証明したものである
  • 斉一性がIID条件によって担保されているときに、大数の法則によって、数をこなせば、平均の確率分布が母平均の周辺に収まることを保証するが、それに加え、この平均の分布は、「釣り鐘形」の正規分布に近づいていく。これを示すのが中心極限定理(central limit theorem)である
  • 大標本理論が示すのはあくまで、無限にデータを取り続ければ最終的には間違いなく分布の真なる姿に到達する、という終局的な保証であるが、我々はそのような無限回の試行をすることが決してできない。しかも多くのケースでは、「大標本」というには遠く及ばないような限られた数のデータに基づいて行わなければならない
  • そうした制約の中にあっても帰納推論をできるだけ正確に行い、確らしさや信頼性を評価するために、推論統計は、IID条件によって担保された斉一性に加え、分布の形や種類について仮説を加える。例えばパラメトリック統計では、対象となる確率分布は特定の関数によって明示的に書き下すことができ、その形は有限個のパラメータによって決定されると想定する。このように候補として絞り込まれた分布の集合を統計モデル(statistical model)と呼ぶ
  • 確率モデルの斉一性は「真なるもの」として仮定されているが、統計モデルは実在の真なる在り方を近似する一種の道具として想定されている。統計学者ジョージ・ボックスの「すべてのモデルは偽であるが、そのうちいくつかは役に立つ(all models are wrong, but some are useful)」という箴言は統計モデルの道具的なあり方を的確に表している
  • 統計モデルの立て方には、ノンパラメトリック統計とパラメトリック統計の二種類がある
  • ノンパラメトリック統計は、対象となる分布の在り方について、その具体的な関数型を定めることなく、連続性や微分可能性など一般的で緩い仮定だけを立てる
  • パラメトリック統計は、ノンパラメトリック統計からさらに踏み込んで、分布が大まかにどのような形をしているかを特定する。例えばサイコロの目のようにある確率変数が取りうる値に全て同じ確率を割り当てる一様分布(uniform distribution)、例えばコインを投げたときに確率変数(表、裏)のうち表の確率が決まると、それによって裏の確率も決まるベルヌーイ分布、例えばコインをn回連続して投げたときに、表がx回数である確率のように、個々の試行の確率と試行の回数の二つによって決まる二項分布(binominal distribution)、二項分布の試行の回数を大きくしたときに見られる左右対称の釣り鐘型のカーブである正規分布(normal distribution)、複数の確率変数が正規分布に従う多変量正規分布(multivariate nominal distribution)といったものがある。こういった分類の種類を分類族(family of distributions)と呼ぶ
  • 未来のデータを予測する推測統計は、まだ観察されていない事象や観察できない事象を予測したり説明したりすることを可能にした。そして予測は、原因が結果を引き起こすという因果関係は、20世紀の中頃までは、予測と因果的説明は本質的に異なるところはないと考えられてきた
  • しかしながら、予測が必ずしも因果関係を説明しないこと(例: 交絡因子による偽相関)が明らかになってきた
  • さらに、予測の際に用いられる斉一性を推定した確率モデルでは因果関係を捉えきれないことも明らかになってきた。予測は観察されたデータに基づく推論であるが、因果推論は何らかの介入をおこなった結果を推論するものである。介入とは、対象である世界に対して変更を加え、それを新しい状態に変えてしまうことである。とするならば、その世界についてそれまで成立していた斉一性が破られ、確率分布が変えられ、確率モデルが変えられることとなる。とすると、介入によって変えられた後の確率分布を推論する際に、その変化の法則を、変化を被る対象の内のみに求めることはできず、そうした個々の確率分布を持つ世界の間を結びつけるような間世界的な法則が求められることとなる
  • 何らかの介入(例: 問題を解決することを狙って立案された施策)を行った結果を予測するためには、推測統計以外のアプローチが求められる

 

介入を行った結果を予測する統計的因果推論

  • 因果推論は何らかの介入を行った結果を予測するものである
  • デヴィッド・ルイスによると、EがCに因果的に依存する(causally depends)とは、
    (L1)もしCであったとしたらEであっただろう
    (L2)もしCでなかったとしたらEでなかっただろう
    という二つの反事実条件が共に成立することである
  • 「もしCであったとしたらEであっただろう」が現実世界において真になるのは、
    (i) どの可能世界でもCではない あるいは
    (ii)CとEがともに成立している可能世界があり、それはCであるがEでないような可能世界のどれよりも現実世界に近い
    ときである。
    (ii)によれば、Cが成立し、なおかつEも成立するような可能世界がどこかにあることになる(適例世界)が、すべての可能世界がそうなのではなく、CであってもEでない可能世界(反適例世界)もありうる。
    適例世界があらゆる反適例世界よりも現実世界に似ているのであれば、反事実条件(L1)は真となる。また、これを逆にする(上記の議論のC、Eをそれぞれ-C、-Eに置き換える)ことで、(L2)の真偽条件を定めることができる
  • 例えば、「甘いものは虫歯の原因である」という因果命題においては、(L1)はその人が甘いものを食べかつ虫歯である適例世界が存在していれば成立し、(L2)はその人が甘いものを食べていないにもかかわらず虫歯になった反例世界が、その人が全く歯を磨いていなかったり、虫歯菌が凶暴化していたりといった現実世界とは大きく異なるものであるのに対して、虫歯にならなかった適例世界は単にその人が甘いものを食べなかったということ以外はみな現実と同様だったとしたら成立する
  • しかし、現実世界でその人が甘党だったとするならば、その人が甘党でなかった世界を観測することはできない。これは因果推論の根本問題(the fundamental problem of causal inference)と呼ばれている
  • X、Yをそれぞれ確率変数として、値1で肯定、値0で否定とし、Y0を「仮にX=0だったときにYが取るであろう値(甘党でなかったときの虫歯の有無)」、Y1を「仮にX=1だったときにYが取るであろう値(甘党であったときの虫歯の有無)」とすると、ルイスの二条件が満たされるとは、Y1=1かつY0=0であることとなる
  • Y1 - Y0 = 1となることである。したがってある集団においてどれくらい因果効果が認められたかは、この期待値をとった平均処置効果(average treatment effect)である

    E(Y1-Y0) = E(Y1) – E(Y0) (1)

    で表され、これが1に近いほど因果的な効果があったと考えることができる
  • Y0の値は X=0の人については実際に観察できるがX=1の人については潜在的に定義されるだけで観察はできず欠損値となる。同様に、Y1の値は、X=0の人については実際に観察できるが、X=1の人については潜在的に定義されるだけで観察はできずデータは欠損値となる。しかしながら、X=1のもとでのY1の期待値と、X=0のもとでのY0の期待値はデータがあるので、前者はX=1である人のYの値の平均、後者はX=0で観測されたYの値の平均で求めることができる。このようにして得られた条件付期待値の差である  

    E(Y1|X=1) – E(Y0|X=0)  (2)

    は推定でき、 もし式(2)と式(1)が一致するならば、因果の根本問題を回避し、得られたデータから因果効果を推定できる
  • 式(2)と式(1)は、E(Y0) = E(Y0|X=0) かつ E(Y1) = E(Y1|X=1)のときに一致する。これは、XとYi(ただし i= 0,1)が独立であるということである
  • しかし、一般にそれらが独立であると期待できる理由はない。例えば後者の独立性 P(Y1) = P (Y1|X=1)は、実際に甘党だと確認された人が虫歯になる確率と、人々が仮に甘党だったとしたら場合に虫歯になる確率が等しいということを述べている。しかし現実世界では実際に甘党な人は、単に甘いものを食べるだけでなく、一緒によくコーヒーを飲んだり、あるいは頻繁に間食する習慣があったりと、他にも歯に悪影響を及ぼすような食生活をおくっているかもしれない。こうした交絡要因がある場合、実際に甘党だと確認された人の虫歯の確率 P (Y1|X=1)は、単にランダムに選ばれた人が甘党に「させられた」世界での虫歯の確率 P(Y1)よりも高くなるだろう。つまり両者は独立にならない。こうした交絡要因は多数考えられるので、式(2)と式(1)が無条件に一致すると期待することはできない
  • ではどうすると良いか。一つの方法は、実験によって両者を無理やり独立にしてしまうことである。例えばそれぞれの被験者についてコインを投げ、表が出た被験者には毎日甘いものを食べてもらい、裏なら食べることを控えてもらう、というような実験を考える。コイン投げはランダムなので、この場合XはY0, Y1を含めた他のいかなる変数からも独立になる。これがフィッシャーの無作為化比較試験(Randomized Control Trial: RCT)である
  • この実験では、被験者のそれぞれに対し、目下関心のある処置(この場合「甘いものを食べる」)を施すか否かをランダムに決める。そうして得られた処置群/非処置群の平均(この場合「虫歯の発生確率」)を比較して、その差が有意に大きければ、処置には因果的な効果があったと結論される。そしてその根拠は、無作為化によって処置Xが潜在結果Y, Y1と独立になり、実際の観察から推定可能な二群の差である式(2)が、本来可能世界で定義される平均処置効果である式(1)に一致すると考えることができるからなのである
  • RCTは因果推論の王道であり、因果関係についての科学的知見の多くはRCTに頼っている。しかしながら、RCTの実施には様々な現実的な困難(例: 実験するための人的、時間的、経済的なリソース)ないし倫理的な困難(例: 喫煙のリスクを知りたいからといって、無作為に集めた人々に対して喫煙を強要することが倫理的に許容されない)がつきまとう。また、そもそも実験を行うことができないような場面(例: 人間活動による環境への影響、ある政策が経済に与えるインパクト)もある。このような場合にどうすれば良いのか
  • 仮に甘いものが好きな被験者Aとそうでない被験者Bが、甘いものが好きかどうかという点以外はすべての点において共通すると想定できるならば、我々は被験者Bの結果を「被験者Aが仮に甘党でなかったときの結果」、被験者Aを「被験者Bが仮に甘党でなかった時の結果」として扱うことができるだろう。しかしながら、被験者Aと被験者Bが似ているかどうかは、その基準となる変数を無限に考えることができるので判断が難しい
  • ただし、そもそも我々の目的は、式(2)においてXとYiを独立にすることであり、被験者同士があらゆる面でそっくりである必要はない。そこで、何らかの変数Zを探してきて、そのもとで条件付独立性が成り立つようにしてやれば十分である。この条件は、強く無視できる割り当て(strongly treatment assignment)条件と呼ばれる。確率式で書き下すと、

    P(x|y0, y1, z) = P(x|z)   (3)

    となり、要はこれを満たすような属性のリスト(ベクトル)Zを求めれば良い。同じZの値を持つ被験者であれば、XとYの間の因果関係の推論という目的にとっては「そっくり」とみなしてよろしい、ということである
  • Zに具体的に含まれるのは、XとYの間の交絡要因である。もしZが交絡要因のすべてを含んでいれば、独立条件である式(3)は成立し、観察データから平均処置効果である式(1)を推定できる。多数考えられる交絡要因を共変量として回帰モデルに組み込むと分析の精度が落ちてしまうが、それらの交絡要因を「要約」するような一つの変数があると、分析の精度が落ちるのを回避できる。そうした変数として用いられるのが、共変量zが与えられたときに処置を受ける確率P(X=1|z))である傾向スコア(propensity score)である。傾向スコアは、二人の被験者が「甘党である確率」である、この確率が共通していることによって、両者を「そっくり」とみなすものである

 

資料: 大塚淳 (2020)『統計学を哲学する』 名古屋大学出版

仮説演繹法とアブダクション

野家啓一の『科学哲学への招待』の中で、私が携わる経営・マーケティングの研究において広く採用されている「仮説演繹法」と、その限界を補う「アブダクション」についてわかりやすく整理されていたので、以下要約しました。

 

仮説演繹法についての整理

<前提1 – 演繹法>

  • 「演繹法(deduction)」は、普遍的命題(前提)から個別的命題(結論)を論理的に導き出す方法、より具体的には、一群の公理(前提、普遍的命題)から一つ一つステップを踏んで個々の定理(結論、個別的命題)を導出する手続きである
  • 演繹法の長所は前提が正しければ結論は必ず正しい点、短所は(結論は前提のうちに既に暗示的に含まれていたものを明示的に取り出したものなので)知識を拡張することができない点である

 

<前提2 – 帰納法>

  • 「帰納法(induction)」は、個別的命題(前提)から普遍的命題(結論)を導き出す方法、より具体的には、有限個の観察的事実(前提)から普遍的法則(結論)を導出する手続きである
  • 帰納法の長所は知識を拡張することができる点、短所は(有限個の観察的事実が過去・現在・未来のすべてである無限個において必ず再現するとは言えないので)そこで見出された普遍的法則は必ず正しいとは言えないものであり一定の確率で成立するとしか言えない点である

 

<仮説演繹法>

  • 仮説演繹法は、演繹法と帰納法の両者の長所を生かし、短所を補うものである
  • 仮説演繹法の先駆者は、十三世紀に「分解と合成の方法」を提唱したロバート・グロステストである。グロステストは、現象をその構成要素まで分析してそこから一般原理を発見する過程である「分解(resolutio)」(≒帰納法)と、見出された一般原理を組み合わせてそこからもとの現象を演繹的に再構成する手続である「合成(compositio)」(≒演繹法)の二つの過程を提示し、後者の過程で導出された命題は、経験的にテストされなければならないと主張し、これが仮説演繹法の原型となる
  • フランシス・ベーコンは1620年の著書『ノヴム・オルガヌム』の中で、近代科学の方法を「経験的能力と合理的能力との真実の正当性の結婚」と特徴づけ、その結婚の内実を「蟻と蜘蛛と蜜蝋」の比喩(蟻は経験的データを収集して結論を導く帰納法、蜘蛛は公理から合理的推論によって結論を紡ぎだす演繹法、そして蜜蝋はさまざまな材料を集めてきては自分の中で変形し消化する仮説演繹法)を示した
  • ジョン・ハーシェルは1830年の著書『自然哲学研究に関する予備的考察』の中で「科学的探究が成功を収める過程では、帰納法と演繹法の双方を交互に使用することが絶えず求められている」という考え方に基づいて仮説演繹法を定式化し、ウィリアム・ヒューエル、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズらが洗練させた
  • 仮説演繹法は、今日では以下のステップを踏むものと考えられている
    (1) 観察に基づいた問題の発見
    (2) 問題を解決する仮説の提起
    (3) 仮説からのテスト命題(予測)の演繹
    (4) テスト命題の実験的検証または反証
    (5) テストの結果に基づく仮説の受容、修正まだは放棄
  • (1)から(2)に至る過程では帰納法を、(2)から(3)に至る過程では演繹法を用いることにより、帰納法による知識の拡張を活用しながら、帰納法のもつ不確実さを演繹法によってある程度まで補正することができている。しかしながら、仮説演繹法といえども有限界のテストを通じて仮説を確立する方法である限り、そこで得られた一般法則は、一定の確率で法則が成り立つことを保証するにとどまる

 

アブダクション(abduction)についての整理

  • 仮説演繹法は近代科学の根幹をなす優れた方法論ではあるが、新しい仮説を発想するための「発見法(heuristics)」とはなりえない
  • 発見法につながる論理の代表例が、チャールズ・サンダース・パースが提唱し、ノーウッド・ラッセル・ハンソンが定式化した「アブダクション(abduction)」という方法論である
  • ハンソンは、アブダクションを以下の三つのステップから成り立つものとしている
    (1) ある予期していなかった現象Pが観測される
    (2) もし仮説Hを真とすれば、その帰結がPとして説明される
    (3) ゆえに、Hを真としてみる理由がある
  • 「P」という第一前提と「HならばP」という第二前提とから「H」という結論を導出する推論は、演繹法の観点からは「後件肯定の誤謬」と呼ばれてきた誤謬推論の一つであり、それゆえ、そこから導出された結論は必ず正しいと言えないものである。しかしながら、実際の科学研究の現場においては、しばしばこのような方法によって仮説が発想され、形成されている。それゆえ、アブダクションは論理的には正しい推論ではないが、発見法としては実践的な価値をもつ手続である
  • 今日ではアブダクションは「セレンディピティ(serendipity)」と結びつけて論じられることも多い。たとえばアルキメデスが風呂でたまたま浮力の法則を発見したり、レントゲンが陰極管の実験をしていて偶然にX線を発見したことなどは、セレンディピティ(偶然的に科学的真理を発見する能力)が発揮された事例と言われる。このセレンディピティの背景として、アブダクションをはじめ、アナロジーやメタファー(隠喩)などの有効性が指摘されている
  • 科学的発見のプロセスは、単なる論理的アルゴリズムに還元することはできない。コンピュータは、膨大なデータから帰納的に法則を見つけ出すことはできたとしても、コンピュータに新しい概念や理論を発見することが可能かどうかについては意見が分かれる。科学者の思考は、論理的に妥当な推論だけに基づいているわけではなく、アルゴリズムには還元できないような非形式的な推論を無意識のうちに行っている

 

「仮説演繹法」と「アブダクション」をめぐる議論は、経営・マーケティングの研究の観点以外に、戦略コンサルティングが得意であると言われている「ロジカルシンキング」と、デザインファームや広告会社が得意とすると言われている「デザインシンキング」をめぐる議論にも、通じる部分があるかもしれませんね。

 

資料: 野家啓一(2015)『科学哲学への招待』ちくま学芸文庫

実証研究の方法論が拠り所とする科学哲学の考え方の整理

藤井秀樹先生の「実証会計学の方法論 –科学哲学的背景の検討を中心に–」という論文において、今日の経営学やマーケティングにおいて使われている実証研究(empirical research)の方法論が拠り所とする科学哲学の考え方についてわかりやすく整理されていたので、該当する部分をサマリーする。

 

(実証主義)

  • 実証主義(positivism)の名称はそもそも、「(神によって)設定された」を意味するラテン語”positivus”に由来し、近世(特に17世紀)のヨーロッパにおいては、「自然法則は神の自由な設定による」ことを示すために用いられていた。その背景には、自然法則の根拠を「神の自由な設定」からさらに遡ることができないという考え方があった
  • 科学的思考法の整備が進む中で、実証主義は、事実として与えられる自然法則で満足し、その背後に生成の神秘などを求めない知識(科学的知識)のあり方を指すようになった

 

(論理実証主義)

  • 論理実証主義(logical positivism)においては、経験が知識の基礎とされ、一般法則は観察と論理によってのみ正当化されうる
  • 論理実証主義から、経験を通じて得られる知識(経験的知識)に基づいて世界のあり方や仕組みを説明することが科学の目的であると考える科学目的観が導き出された
  • 科学目的観に基づくと、経験を通じて検証できない命題を取り扱う形而上学は、科学ではないということになる
  • 科学の課題と哲学の課題を区別することにより、論理実証主義は、形而上学的諸問題(例: 「事物の本質は何か」)に煩わされることなく、経験的知識の探究に邁進することができるようになる
  • 論理実証主義に基づいて、ある仮説が設定され、サンプルデータの統計分析を通じてその仮説の検証が行われ、その検証の結果に基づいて、「仮説が支持された」といった結論が導かれる今日的な研究方法、いわゆる実証研究(empirical research)の方法論が整備された

 

そして、実証研究の拠り所となっているのは、帰納法、反証主義、確率・統計的思考法の三つの考え方である。

 

(帰納法)

  • 枚挙的帰納法(enumerative induction)においては、繰り返し観察される同種の経験的事実を根拠にしながら、より一般的な法則(究極的には普遍的な法則)を導こうとする推論方法である。具体的には、統計処理における最小二乗法やデータ処理法のカーブ・フィッティングは枚挙的帰納法が挙げられる
  • 仮説演繹法(hypothetico-deductive method)においては、「仮説が正しければ」(仮説)、「こういう条件下で」(初期条件)、「こういうことが生じるはずである」(観察予測)という演繹的推論が行われ、その推論と観察の結果が一致していれば「仮説が証明された」ということになる。観察予測と観察の結果の照合により一致しているという判断には帰納法が使われる
  • しかしながら、枚挙的帰納法も仮説演繹法も、普遍的な法則を導くには、関連事実の無限集合を観察対象にする必要があるが、現実世界で観察が可能なのは有限個の観察事実に過ぎない。有限個の関連事実の観察から普遍的な法則を帰納法によって推論する際には、「同じ条件のもとでは、同じ現象が繰り返される」という斉一性原理(principle of the uniformity)を前提とせざるを得ないが、斉一性原理を正当化するのには、関連事実の無限集合を観察対象にする必要がある、という循環論法に陥ってしまう。これが帰納法に対する懐疑主義的批判である

 

(反証主義)

  • 懐疑主義的批判に対して、ポパーは、帰納法を推論過程から排除した科学的方法論として反論主義(falsificationism)を提唱した。確かに観察予測と観察結果が一致しても仮説は検証されないが、観察予測と観察結果が一致しない場合、すなわち、仮説が正しければ絶対に起きないような事実が観察された場合には、「仮説が間違っている」ということを揺るぎない結論として導き出すことができる。これは、帰納法を使わないで推論することができる。ポパーによると、観察予測と観察結果が一致しないことにこそ方法論的な意味があるのであり、仮説が反証されたならば、どのように反証されたかを参考にして、研究者はより良い仮説を新たに考案することができるとされる
  • 今日的な実証研究においては、統計的検定の対象となる仮説として、それを棄却することによってその対立仮説が統計的に支持されることを示すために設定される仮説(帰無仮説)が提示されるが、この帰無仮説の考え方には、ポパーの反証主義が反映していると言われている
  • ポパーは、反証不可能な仮説(反証条件を特定できない仮説)は科学的仮説とは言えないとし、反証可能性の有無を、科学と疑似科学の境界設定問題(demarcation problem)を考える際の基準線とした
  • しかしながら、反証主義には、ある仮説が反証されたとしても、その反証が、主要仮説と補助仮説(主要仮説の前提や条件となる諸条件)のどちらかについてなされたのかがわからないといった、観察によって仮説が決定されない過小決定(under-determination)の問題が残った

 

(確率・統計的思考法)

  • 過小問題に対して、証拠の予測確率を100%とする制約条件を緩め、反証主義の基本的原則(「仮説が真ならば起こりえないようなことが起きたら、その仮説は放棄すべきである」という推論規則)を、確率的要素を含む規則(「仮説が真であれば非常に低い確率でしか起きないようなことが起きたら、その仮説は放棄すべきである」という推論規則)に置き換えることで、実証研究の方法論は、過小問題に対処できるようになる
  • 今日の経営学やマーケティングにおいて使われている実証研究の方法論は、確率的要素を含んだ推論規則をベースとしている。
  • 典型的な手順は、ランダムサンプリングされたAグループとBグループのそれぞれのグループにおいて、論点となる変数Xの出現する割合が、「Aグループの割合とBグループの割合には差がない」という帰無仮説(H0)を立て、カイ2乗検定でこの帰無仮説が棄却できるかどうかを判定するものである

    この判定は、確率論的に行われる。例えば、変数Xの割合に、Aグループにおいて70%(140/200)、Bグループにおいて55%(110/200)という差があった場合、カイ2乗値が9.6となり、カイ2乗値が6.63を超えると1%水準で有意になるので、「Aグループの割合とBグループの割合の差は、100回同じように調査をした場合に1回以下しか観察されない非常に稀なものである」ことを示している。したがって、99%以上の信頼性で帰無仮説を棄却することができる

    帰無仮説が棄却できれば、「Aグループの割合とBグループの割合には差がある」という本来確かめたかった仮説(対立仮説H1)が支持され、帰無仮説が棄却できなければ、帰無仮説は当面保持される
  • ただし、このアプローチにおいても、仮説検定において考慮されていない要因が帰無仮説の反証に無視しえない影響を与えているとすれば、検証結果は「見せかけの相関関係」を示すことになる。そこで、仮説と証拠を結ぶ様々な補助仮説が考慮され、必要に応じてモデルの改良が行われることが期待される

 

残念ながら、この「見せかけの相関関係」の問題を解決し、因果関係を証明できる実証研究の方法論が、もし「ランダム化比較試験」による検証が可能な仮説ならば「ランダム化比較試験」が最も信頼性が高いという今日的な結論まではこの論文には出てこない(会計学の研究だとおそらく「ランダム化比較試験」がしにくいテーマが多いのだろうが)が、それは別の機会にまとめることにしよう

 

資料

藤井秀樹 (2010) 「実証会計学の方法論 –科学哲学的背景の検討を中心に–」『京都大学大学院経済学研究科 Working Paper No. J-81』 http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~chousa/WP/j-81.pdf

柄谷行人による「反証可能性」についての説明

カール・ポパーの「反証可能性」について、その本質を明快に説明していた柄谷行人の説明がありましたので、該当する部分の一部を備忘のため引用します。

 

“ たとえば、デカルトはすでに仮説を立て、それを検証する実験を考案することを主張している。したがって、たんに仮説・推測の先行性(投げ入れ)を主張することがカントの独創なのではない。問題は、仮説の真理性が観察・実験によって検証できるかどうかにある。そこにヒュームの懐疑があらわれる。なぜたかだが有限回の実験が一般的な法則を保証するのか、と。

 カントが科学的認識を「現象」に限定するのはここにおいてである。ヒュームに対して、彼は次のように応答する。ヒュームは感覚を確実だと考える一方で、数学を分析的判断と見なしており、経験科学にはそのような確実性がないと言う。しかし、カントによれば、われわれが感覚と呼んでいるのはすでに感性や悟性によって構成されたものでしかなく、また数学は綜合的判断である。要するに、カントは経験論者も合理論者も固執している確実な真理というものを放棄したのである。科学は「現象」であり、それで十分だ。科学的認識は綜合的判断=拡張的判断であって、つねに開かれたものである。逆にいうと、確実な認識などは何の価値もない。これが「カント的転回」である。”

 

“ 帰納的推論へのヒュームの懐疑とそれに対するカントの応答の今日的意味を明らかにしたのは、カール・ポパーである。ポパーは彼自身が属していた論理実証主義を非難して、科学的認識を保証するのは「検証可能性」ではなく「反証可能性」であると主張した。ポパーの考えでは、一般に実験的テストにかけられる科学的仮説は、「もし仮説Pが真であるならば、観察可能な出来事Qが生じる」という条件命題のかたちをとるが、その場合Qが観察されたからといって仮説Pが真になるわけではない。しかし、Qが観察されなかった場合は、仮説Pは斥けられる。したがって、科学的命題の真理性は、実験による検証によって得られるのではない。それはたんにその命題が偽であることを示す例を見つける(falsify)ことができないときに成立するが、その真理性は暫定的である。なぜなら将来いつ反証が成功するかも知れないからである。“

 

“ 現象ということによって、カントは科学的知識が暫定的真理であり、したがって拡張的(綜合的)であることを主張していたのである。”

 

柄谷行人 (1995), 「探求III (第九回)」『群像』50(1) , 271-273.

「サピエンス全史」と「世界史の構造」を改めて読む

現在起こっている戦争を目にしながら、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」と柄谷行人の「世界史の構造」の「戦争」に関連する部分を改めて読み返し、気になった部分を備忘として引用します。

 

まず、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」の第18章「国家と市場経済がもたらした世界平和」から。

 

“ ごく少数の例外を除けば、世界の国々は1945年以降、征服・併合を目的として他国へ侵攻することはなくなった。こうした征服劇は、はるか昔から、政治史においては日常茶飯事だった。巨大帝国の多くは、征服によって建設されてきたのであり、大半の支配者も人民も、この状況が変わることはないと考えていた。だが今日では、ローマやモンゴル、オスマントルコのもののような征服を目的とした軍事遠征は、もはや世界のどこにおいても起こり得ない。1945年以降、国連の承認を受けた独立国家が征服されて地図上から消えたことは一度もない。国家間の限定戦争〔相手の殲滅を目指すことなく、その目的や、攻撃の範囲や目標、手段などに一定の制限を設けた戦争〕は、今なおときおり勃発するし、何百万人もの人が戦争で命を落としているが、戦争はもう、当たり前の出来事ではない。”

 

“ 学者たちはこの喜ばしい展開を説明しようと、うんざりして読む気も起こらないほど多くの本や論文を書き、この展開に寄与した要因のいくつかを突き止めた。まず何をおいても、戦争の代償が劇的に大きくなったことが挙げられる。今後あらゆる平和賞を無用にするために、ノーベル平和賞は、原子爆弾を設計したロバート・オッペンハイマーとその同僚たちに贈られるべきだった。核兵器により、超大国間の戦争は集団自殺に等しいものになり、武力による世界征服をもくろむことは不可能になった。”

 

“ 第二に、戦争の代償が急騰する一方で、戦争で得られる利益は減少した。歴史の大半を通じて、敵の領土を略奪したり併合したりすることで、政体は富を手に入れられた。そうした富の大部分は、畑や家畜、奴隷、金などが占めていたので、略奪や接収は容易だった。今日では、富は主に、人的資源や技術的ノウハウ、あるいは銀行のような複合的な社会経済組織から成る。その結果、そうした富を奪い去ったり、自国の領土に併合するのは困難になっている。”

 

“ 戦争は採算が合わなくなる一方で、平和からはこれまでにないほどの利益が挙がるようになった。伝統的な農耕経済においては、遠隔地との取引や外国への投資はごくわずかだった。そのため、戦費の支出を免れることを除けば、平和にたいした得はなかった。16世紀にもし日本と朝鮮が有効的な関係にあったなら、朝鮮の人々は戦争のために重い税を支払うことも、日本の侵略による惨禍に苦しむこともせずに済んだだろうが、それを除けば、彼らに経済的な利益はなかった。現代の資本主義経済では、対外貿易や対外投資はきわめて重要になった。したがって、平和は特別な配当をもたらす。日本と韓国が友好的な関係にあるかぎり、韓国の人々は製品を日本に売り、日本の株式を売買し、日本からの投資を受けることで、繁栄を謳歌できる。”

 

“ 最後になったが、他に劣らず重要な要因として、グローバルな政治文化に構造的転換が起こったことが挙げられる。歴史上、フン族の首長やヴァイキングの王侯、アステカ帝国の神官をはじめとする多くのエリート層は、戦争を善なるものと肯定的に捉えていた。一方で、うまく利用すべき必要悪と考える指導者もいた。現代は史上初めて、平和を愛するエリート層が世界を治める時代だ。政治家も、実業家も、知識人も、芸術家も、戦争は悪であり、回避できると心底信じている。”

 

“ 以上の四つの要因の間には、正のフィードバック・ループが形成されている。核兵器による大量虐殺の脅威は、平和主義を促進する。平和主義が広まると、戦争は影を潜め、交易が盛んになる。そして交易によって、平和の利益と戦争の代償はともに増大する。時の経過とともに、このフィードバック・ループは、戦争の歯止めをさらに生み出す。最終的にその歯止めは、あらゆる要因の中で最大の重要性を持つことになるかもしれない。国際関係が緊密になると、多くの国の独立性が弱まり、どこかの国が単独で戦争を仕掛ける公算が低下するのだ。大半の国々が全面戦争を起こさないのはひとえに、もはや単独では国としては成り立ち得ないという単純な理由による。”

 

 ハラリがここで見出す戦争の代償、戦争で得られる利益、平和の利益、平和を愛する政治文化の四つの要因による正のフィードバック・ループは、今日において戦争を行わないことの合理性を確かに強化しているように感じます。

 この考え方に基づくと、もし現在起こっている戦争が「利益-代償」の合理性の判断に基づいて展開されているならば、この四つの要因に対する認知を変えるきっかけを提供することにより、解決する希望がありそうです。

 

次に、柄谷行人の「世界史の構造」の第四部「現在と未来」の第二章「世界共和国へ」から。

 

“ ここでわれわれが考えるべきなのは、世界国家(帝国)のように至上の主権者をもつことなく、諸国家が連邦したままで「国際法」あるいは「万民の法」に従うということがいかにして可能になるのか、という問題である。ホッブス的な考えでは、それはあり得ない。国内でそうであったように、戦争を通して権力を独占した主権者の下に、各国が「社会契約」を交わすときに、平和状態が可能となる。そうでなければ、諸国家の連邦では、国際法に対する違反を咎めるすべがない。たとえば、ヘーゲルはそのように考えた。”

“ しかし、カントは、ヘーゲルがいうように、「理想論」をナイーブな観点から唱えたのではない。カントはヘーゲルとは違った意味で、ホッブスと同様の見方をしていた。つまり、人間の本性(自然)には、「反社会的社会性」があり、それをとりのぞくことはできないと考えていた。この点で、カントをホッブスと対照的に見るのは、あまりにも浅薄な通念である。カントが永遠平和のための国家連合を構想したとき、暴力にもとづく国家の本性を容易に解消することはできないという認識に立っていた。だが、彼は世界共和国という統整的理念を放棄するのではなく、徐々にそこに近づけばよいと考えたのである。諸国家連邦はそのための第一歩である。 

 しかも、カントは諸国家連邦を構想しつつ、それが人間の理性や道徳性によって実現されるとは全く考えなかった。それをもたらすのは、人間の「反社会的社会性」、いいかえれば、戦争だと、カントは考えたのである。”

 

“ 19世紀末に、帝国主義とともに、カントの諸国家連邦論が復活してきた。そして、それがある程度実現されたのが、第一次世界大戦後の国際連盟である。それをもたらしたのは、カント的な理想というよりも、第一次世界大戦において、彼がいう人間の「反社会的社会性」が未曾有の規模で発現されたことによってである。

 国際連盟は、それを提案したアメリカ自身が批准しなかったため無力で、第二次世界大戦を防ぐことができなかった。しかし、第二次世界大戦の結果として、国際連合が形成された。つまり、カントの構想は、二度の世界大戦を通して、つまり、「自然の狡知」によって達成されたのである。”

 

“ 第二次世界大戦後に結成された国際連合は、国際連盟の挫折の反省に立っているが、やはり無力である。国連は、それを通して有力な諸国家が、自己の目的を実現する手段でしかない、という批判があり、また、国連は独自の軍事組織がないため、軍事力をもった有力な国家に依拠するしかない、という実情がある。そして、国連への批判はいつもカントに対するヘーゲルの批判に帰着する。すなわち、国連によって国際紛争を解決しようという考えは「カント的理想主義」にすぎないと言われるのである。もちろん、国際連合は無力である。だからといって、それを嘲笑して無視しつづけるならば、どういうことになるか。世界戦争である。しかし、それは新たな国際連合を形成するということに帰結するだろう。したがって、カントの見方には、ヘーゲルのリアリズムよりも、もっと残酷なリアリズムがひそんでいる。”

 

“ 諸国家連邦では、諸国家の対立や戦争を抑止することができない。実力を行使しうる国家を認めないからだ。だが、カントによれば、その結果として生じた戦争が、諸国家連邦を強固にする。諸国家の戦争を抑えるのは、他に抜きんでたヘゲモニー国家ではない。諸国家間の戦争を通して形成された諸国家連邦なのである。”

 

 柄谷がカントに見出している「諸国家連邦」という希望は、「反社会的社会性」=戦争自体を避けることはできないが、それを通じて徐々に強固になるものとされています。
 この考え方に基づくと、もし今回の戦争が、合理性の判断ではなく人間の本性に基づいて展開されているならば、残念ながらそう簡単には解決しないかもしれません。

「トロッコ問題」と「二重過程理論」ー「モラル・トライブズ」読書メモ2

20世紀の中頃の哲学(倫理学)に登場した「トロッコ問題」という問題がある。マイケル・サンデルの「白熱教室」でこの問題をめぐる議論を観た方もいらっしゃるだろう。

制御不能になったトロッコが、五人の鉄道作業員めがけて突き進んでいる。トロッコがいまのまま進めば、五人は轢き殺されるだろう。
あなたはいま線路にかかる歩道橋の上にいる。歩道橋は向かってくるトロッコと五人の作業員のいるところの中間にある。
あなたの隣には大きなリュックを背負った鉄道作業員がいる。五人を救うには、この男を歩道橋から線路めがけて突き落とすしかない。その結果男は死ぬだろう。
しかし男の身体とリュックサックで、トロッコが他の五人のところまで行くのを食い止められる。
ただし、あなた自身はリュックサックを背負っていないし、トロッコを止められるほど体も大きくないし、この男からリュックサックを受け取って背負う時間もない。
この見知らぬ男を突き落として死なせ、五人を救うことは、道徳的に容認できるだろうか?

この判断に対しては、やはり、ほとんどの人が「間違っている」と答えるそうである。

ところで、この問題にはもう一つのバージョンがある。トロッコを止める方法が、隣にいるリュックサックを背負った鉄道作業員を突き落とすのではなく、分岐器のスイッチを押して、トロッコの進む先を、五人の鉄道作業員がいる今の線路ではなく、一人の鉄道作業員がいる待避線に切り替えるというものである。スイッチを押すことによって、待避線にいる一人の作業員は轢き殺されてしまうが、五人の作業員は救うことができる。

このバージョンになると、この判断に対して正しいとする意見が出てくる。そう、同じ人が、前者は間違った判断だと考え、後者は正しい判断だと考えるのだ。しかし、この二つのバージョンは、本質的には同じ問題である。それに対して、私たちは、あるときは正しいと考え、あるときには間違っていると考える。なぜこの矛盾が生じるのか?

この矛盾は、これまでの哲学の「トロッコ問題」に対する模範解答ーベンサム的な功利主義(最大多数の最大幸福)と、カント的な義務論(人間を手段ではなく目的として扱うべし)の間での議論ーでは解決することができない。

ジョシュア・グリーンは、そこに意外なアプローチを持ち込む。それはfMRI(functional magnetic resonance imaging, 磁気共鳴機能画像法)による脳のスキャン。

このトロッコ問題の二つのバージョンをベースとしたストーリーを被験者に読んでもらい、判断してもらうときに脳をスキャンすることにより、「非人身的」なストーリー(≒分岐器のスイッチを押す)を読んだ際には主としてDLPFC(前頭前野背外側部)が活動するが、「人身的」なストーリー(≒隣にいる鉄道作業員を突き落とす)を読んだ際には、DLPFCとともにVMPFC(前頭前野腹内側部)が活動することを実証した。

神経科学のこれまでの研究から、DLPFCは人間の認知制御を処理し、VMPFCは人間の情動的な反応を処理することから、この実験は、人間が、同じ問題に対して二つの異なるプロセスで思考を展開することを示している。

グリーンは、この二つのプロセスを、行動経済学の二重過程理論をベースに、「オートモード」と「マニュアルモード」と名づける。

「オートモード」のときは、情動的なものに基づいて効率的に判断が展開される。そして、「オートモード」を使って解けない問題に対しては、「マニュアルモード」を使うことで、理性的なものに基づいて柔軟に問題解決が展開される。

そして、同じ部族の中の《私》対《私たち》の問題のときは、「オートモード」が有効だとされる。
共感、愛情、友情、感謝、名誉心、羞恥心、罪悪感、忠誠、畏怖、当惑といった情動によって自分の利益よりも他者の利益を優先したり、怒りや嫌悪の情動によって《私たち》より《私》を大事にしすぎる人を避けたり、罰しようとしたりすることによって、部族内での嘘や欺き、盗み、殺人は大幅に減り、《私たち》は繁栄できることになる。

ところが、前回紹介した「常識的道徳の悲劇」のように、異なる部族の間の《私たち》対《彼ら》の問題のときは、『私たちの利益』対『彼らの利益』や『私たちの価値観』対『彼らの価値観』が関わることになるが、このような場面では、「オートモード」には《彼ら》よりも《私たち》を優先する傾向があり、「オートモード」が機能する前提となる協力条件や、指導者、文書、制度、慣習における『固有名詞』も部族間で異なるため、「オートモード」は必ずしも有効ではなく、むしろ問題を解決から遠ざけることとなる。

グリーンは、《私たち》対《彼ら》の問題のときには、「マニュアルモード」に切り替えるのが解決の鍵だと考える。そして、「マニュアルモード」に切り替えるべきタイミングを「議論が存在するとき」と提案する。
部族間の意見が対立するとき、それはほぼ例外なく、オートモードが違う意見を言っていて、「情動の道徳羅針盤が反対の方角を指している」ことが原因である。とするならば、あらゆるやり方で《私たち》が正しくて《彼ら》が間違っているように考える傾向を持つ「オートモード」は、問題を悪化させるばかりである。

しかしながら、一旦議論が始まり意見が対立してしまうと、そこから「マニュアルモード」に切り替えることは、実際ににはなかなか難しいものでもある。
そこで、具体的な解決策として、グリーンは、「説明の深さの錯覚」の利用を提唱する。すなわち、人間が持っている、そのテーマに関する仕組みを知らなくてもそのテーマを理解しているように感じる錯覚を突くアプローチー例えば、自らが議論で強硬な姿勢で主張しているテーマについて、例えばその仕組みを説明してみることを求める質問をすることによって、「マニュアルモード」に切り替えるのを促すといったものーである。実際にこの質問を実験したところ、被験者の強硬な姿勢が緩和されたとのことである。

これまで私たちの社会で有効なアプローチとされてきた議論に基づく問題解決は、この「オートモード」と「マニュアルモード」の切り替えができない限りは、実は私たちが思っているほど(あるいは薄々気づいていた通り)有効ではないのかもしれない。
議論が始まってしまう前に、情動を封じて「マニュアルモード」に切り替えるアプローチを、私たちはもっと磨き込まなければならないのかもしれない。