宮尾学先生の「技術の社会的形成」に関する以下の2つの文章を読みました。
この文章を読んで、マーケティングの実務の視点から感じたことをメモします。
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マーケティングにおいて、新たなカテゴリー・ニーズを確立するプロジェクトは、すでにあるカテゴリーの中で自社のブランドを差別化していくプロジェクトよりも、マーケッターによって好みの違いはあるかもしれませんが、一般的にはワクワクするものでしょう。
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しかしながら、そういうプロジェクトは、ワクワクするとともに、いざ取り組んでみると、なかなか難しいものでもあります。
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確立したいカテゴリー・ニーズが顧客の潜在的なニーズと一致していて、そのニーズを感じる顧客にある程度の規模があり、これまでそのニーズを満たす製品・サービスを提供している手強いプレイヤーがいなかったとするならば、それは良い兆候です。
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しかしながら、カテゴリー・ニーズがある程度の規模の顧客の潜在的なニーズと一致していて、手強い競合がいなかったとしても、それだけでカテゴリー・ニーズを確立できるわけではありません。
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例えば、これまでのやり方ではコストが高すぎたり、鍵となる機能のスペックが足りなかったりしたために満たすことが難しかったカテゴリー・ニーズを満たすことを可能にする「新しい技術」は、確かにカテゴリー・ニーズを確立するための鍵となりますが、そのような技術の力だけを頼りに一点突破するアプローチは、なかなかうまくいきません。
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「新しい技術」は、カテゴリー・ニーズを解決しうる製品・サービスのアイディアを持つ開発チームと相互的に作用する中でその活用の仕方が見出されるものであり、製品・サービスのアイディアは、そこで想定するカテゴリーの範囲に止まらず、トレンドや規制、市場の経済的な変化といった多様な外部要因と相互的に作用する中で磨きこまれるものです。
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また、自社単独でカテゴリー・ニーズを確立しようとするのではなく、そのビジネス生態系の中で異なるレイヤーのプレイヤー(例: メーカーにとっての小売やメディア)と連携したり、あるいは、ほどよく競合するプレイヤーが登場したりした方が、結果としてより広いターゲットに、より深くカテゴリー・ニーズを確立できるものです。
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このような、多様なモノと主体が絡み合いながら、カテゴリー・ニーズを確立していくメカニズムを、単純化しすぎず、本質的な「勝負どころ」を捉えらえるようにモデル化していくアプローチとして、「技術の社会的形成」は、なかなかいいかも、と感じました。
続けて、認識論の観点から感じたことをメモします。
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かつてトマス・クーンは、ある時代の科学者たちの間で真理だと信じられていた世界を解釈するモデル=パラダイムは普遍的なものではなく、そのパラダイムがフィットしない事象に直面した別の時代の科学者たちの間で、それまでとは別の世界を解釈するモデルの方がフィットする=真理らしいとコンセンサスが得られれば、パラダイムはガラリと変化する(例: 宇宙の捉え方が天動説から地動説に転換、物が燃えることの捉え方がフロギストン説から酸化説に転換)と論じました。
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私たちにとって真理らしいものは、実は、科学者のコミュニティ内の相互作用や、科学者のコミュニティとそれ影響を与える社会との相互作用に影響されて形成されている=社会的形成の産物であると言えるでしょう。
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パラダイムが社会的形成の産物であるように、私たちがある技術に着目し、そこに、これまでのモデルでは解決できなかったものを解決できる非連続的なモデル(イノベーション)の可能性を見出すことも、社会的形成の産物でしょう。
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イノベーションは、そこで着目される技術の性質のみによって決定されるのではなく、その技術に対して人々がまず個々の解釈を見出し、異なる解釈を持つ人々の間の相互作用を通じて次第にあるモデルがコンセンサスを得て、形成されていくとするならば、この形成されたモデル自体の内容を整理するだけでなく、このモデルが形成されるに至った相互作用を見ていった方が、よりそのモデルへの理解が広がり、深まるでしょう。
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例えば「デジタル・トランスフォーメーション」の議論も、今日語られていることだけでなく、ここに至る相互作用の部分まで視野に入れて考えた方が良いでしょう
(2020年4月12日にFacebookに投稿したテキストを再掲)